2006年10月20日 (金)

一張羅を着て

昼間は半袖の方が凌ぎやすいのに、朝夕は寒いくらいで長袖のシャツの上にセーターが欲しい。季節の変化は徐々に起きているのだ。私はセーターを掛けて、コロには一張羅の洋服を着せて朝の散歩。久しぶりのコロの画像です。

Koro1

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2006年9月 5日 (火)

700円は高いかな?

「フジサンケイ ビジネスアイ」の記事に、『犬のふん未処理に罰金700円 』という記事があった。これは日本の話ではなく中国北京市の話だが、「ふんを処理しなかった場合には50元(約725円)の罰金が科される」というものだ。

今朝の散歩は、近くに流れる猿渡川の堤防。その昔、猿が渡ったことに由来 して名前のついたこの猿渡川は、豊田市・安城市・知立市・刈谷市を通って衣浦湾に注ぐ全長17kmの2級河川。堤防なら車も通らない。犬の散歩には恰好の場所だから、ここを散歩コースにしている人も多い。それだけに放置されたまま犬の糞にも出くわす。一応は簡易舗装がされているものの、舗装の割れ目からは草が多い茂っているから、その陰に人目に付かないように放置されているものも多い。うっかりしていると臭いを嗅ぎ付けたコロが近寄っていく。
至るところに糞の持ち帰りを啓発する立て看板やポスターがあるにもかかわらず、放置されたままの糞。後始末は、当然飼い主の義務であるはずだが、今のところ罰則がないだけに(一部条例で規制している市町村もあるようだが)飼い主のマナーやモラルに委ねるしかないのが現状なのかもしれない。
北京のように罰金を科すまでの処分をしないと糞害はあとを絶たないのか・・・。
(注:猿渡川のリンクページは、安城市役所都市整備部区画整理1課のホームページですが、猿渡川の名前の由来といわれる民話が載っていますのでご覧ください。)

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(フランスから 亜矢子提供)

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2006年8月22日 (火)

今宵は雷

Img_6438_1 犬にとっても幼児は可愛らしくってほほえましい。毎日一緒に暮らしているわけでもないのに、時折やって来るだけのオチビちゃんに鼻をかすめて匂いを嗅ぎ、折に触れて思い出す匂いに飼い主家族の私との血の繋がりを感じるのか、姿勢を低くして親愛の情を表わす。
ちょうどそれは、長時間の外出から帰宅した私を見て、部屋中をグルグル周りしながら飛び跳ね、顔といわず、手といわず、体の至るところを舐めまわし、恋しさでいっぱいだった気持を表わすのに似ている。
オチビちゃんにしても、父親や母親、兄たち、祖父母である私たちに次いで好きなのが犬なのだから、近寄って顔を寄せてくるコロに胸をドキドキさせながらも、ますますコロが好きになるのだ。

レッスン室に当てている北の部屋にいると、雨が降っているのも知らずにいる。チャイムの音とともに入ってくる生徒の濡れた衣服を見て、初めて外の雨に気がつく。あわてて、コロの部屋の開けっ放しの窓を閉めに行く。遠くでは雷もしている。

レッスンを終えて、夕ご飯の支度をしながらテレビニュースを見ていると、愛知県は、今夜から宵のうちにかけて雷を伴い短時間に激しい雨が降るとのこと。あわせて落雷の注意事項をあげていた。家の中にも雷が落ちることがあるから、雷が来たら電化製品から身体を遠ざけた方がいいらしい。パソコンなどはプラグを抜くように注意を促していた。
夕食も終え、今は午後8時30分を過ぎている。
案の定、激しい雨とともに雷が近くにやってきた。コロの部屋を覗くと、部屋の隅にある机の下に潜り込んで小さくなっている。難を避けるための彼の知恵だろう。

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2006年4月17日 (月)

犬の場合

ブログなら気楽に更新できると思っていたものの、これまたなかなか更新できません。
平凡な暮らしの中にも思うことや失敗談など転がっているのですが、腰を落ち着けて書こうと思っているうちに、あっという間に時間が過ぎて行きます。時間とは、自分の意思や努力ではどうにもならないもので、ひとりでにさっさと過ぎ去ってしまい、元に戻らないのですから真に厄介です。
戻らない時間を嘆いても仕方ありません。更新ができないのは私の体が休息を要求しているのだと思い、これからもこの調子で行こうと思っています。

先日、富山県で起きた終末患者の延命治療をめぐっての問題に触れました。終末医療の基準が法制化されていないだけに難しい問題です。
これが飼い犬の場合だったらどうだろうか?
最近読んだ本『エアデールテリア物語』(副題「人にいちばん近い犬」/遠藤 貴壽 著/草思社)に、獣医師である著者の飼い犬ペニー(エアデールテリア)の尊厳死について書かれている箇所がありました。ペニーは自己免疫性の疾患で赤芽球癆という難病を患い、その上に右後肢の関節骨折というアクシデントにも見舞われ、もはや回復の見込みのない時期が来たとき、著者の判断でペニーの尊厳を守る死を選んだ話です。
元気なころのペニーは猪猟に優れた犬で、どんなに強い猪を相手にしてもペアで組めば容易に咬み止めることの出来、その猟欲と闘争心は比類がないほどの犬ということです。病状の悪化が死を待つしかない状態に陥いったときの著者の判断は、「人だけでなく犬にもその存在にふさわしい尊厳死というものがあるはずだ。そしてペニーの尊厳死は、戦いのなかにこそあるべきだ。」というものでした。
ペニーの最後は咬み殺し訓練でした。貧血で少しでも動くものなら意識が朦朧とするであろう時期に、100キロはゆうにある猪に立ち向かわせたのです。その日の朝、著者はペニーに次のように問いかけています。「ペニー、おまえ、このまま病院で死ぬんがええか?それとも今日猪と戦って死ぬんがええか?」
飼い主のその言葉が犬に通じたかどうかは疑問ですが、きっと思いは通じたことでしょう。
訓練所で大きな猪に咬みつき、振り払われても振り払われても尚も咬みつき、余力尽きて目を閉じたままでの状態で這うように寄り付いて、最後まで戦うことをやめずに立派に最後を全うしたということです。
犬に感情があったとしても、飼い主でもその気持ちを完全に理解することは出来ないでしょう。たとえ、専門家であっても然りです。著者もこれを「自分のエゴか」と問いかけていますが、心のある限りを傾けて愛情を注ぎ最後までその能力を引き延ばし育てのだから、その決断に私は納得します。犬に限らず、話すことの出来ない動物たちは自分の意思を言葉として伝えることが出来ません、訴えることが出来ません。それでもその表情やしぐさから彼らの意思をある程度汲みとることの出来るのは、愛を注いで飼育した飼い主だからこそです。要は愛情を注いだ対象に対して、飼い主の満足する方法で旅たつ瞬間を見守ることだ、と私思います。

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