2011年4月23日24日の気仙沼

  • Img_3342_1
    気仙沼市唐桑町にの甥一家が東日本大震災で津波の被害に遭遇。お見舞いに駆け付けた時の撮影。

乱読

« 月日の流れの速いこと | トップページ | 行列が止まった »

2020年4月14日 (火)

美しさと不気味さは表裏一体

犬の散歩コースにあるソメイヨシノは、コロナ禍のなかでも例年と変わらぬ華やかさをまとい、咲き誇っていたが、昨日の雨で散り果ててしまった。

この時期になると、毎年必ず読んでみたくなるのが梶井基次郎の『櫻の樹の下には』だ。
わずか数ページのなかで、「俺」が「お前」に向かって話している二人称短篇小説。

「俺」が「お前」に話して聞かせる話題は三つ。
①「櫻の樹の話」
②「剃刀の話」
③「かげろうの話」

①の「櫻の樹の話」は、全編を通じて話されいるわけだが、美しく咲く櫻を見ていて、そのあまりの美しさに不信を抱き、憂鬱に陥るのが事の始まりである。

「櫻の樹の下には屍體が埋つてゐる!
これは信じていいことなんだよ。何故つて、櫻の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことぢゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だつた。しかしいまやつとわかるときが來た。櫻の樹の下には屍體が埋まつている。これは信じていいことだ。」(「日本文学全集34(梶井基次郎/嘉村磯多/中島敦)」“櫻の樹の下には”より)

と、こんな冒頭で始まる。

少々薄気味が悪い出だしだが、櫻の美しさは樹の根元に腐った屍體が埋まっていて、それを養分として、根となり、幹となり、やがて見事に満開に咲くからだという。

美しく咲きほこる櫻と、不気味に腐乱した屍體との対比によって、櫻の美しさに対するイメージが明確な形で浮かび上がり、「俺」は不安から解放されたのだろう。

②「剃刀の話」は、毎晩、千里眼のように浮かぶ剃刀の刃、それがどういう意味を持っているのか、「俺」にも「お前」にもわからない。
剃刀の刃から連想できるのは惨劇だと思うが

「それもこれもやっぱり同じようなことにちがいない。」

・・・この連想が、櫻と同じだと言っている。
ところが櫻のように惨劇に対比するもう一方のもの、惨劇とのギャップで美しさが際立つものが、ここには描かれていない。
これをどう見るか・・・。

③「かげろうの話」
ここでは「俺」が渓で体験した話が出てくる。

「薄羽かげろうがアフロディットのように生まれて来て、溪の空をめがけて舞い上がってゆくのが見えた。おまえも知っているとおり、彼らはそこで美しい結婚をするのだ。」

その一方で

「思いがけない石油を流したような光彩が、一面に浮いているのだ。おまえはそれを何だったと思う。それは何万匹とも数の知れない、薄羽かげろうの屍體だったのだ。」

とある。

これは「かげろう」の誕生と屍體 を同時に見たことにより、水たまりに浮かぶ何万匹とも数の知れない、薄羽かげろうの屍體 が美しく見えたのだ。

梶井基次郎は若くして肺結核を患い、20篇余りの小品を残しながらも31歳の若さで逝った。
死を自覚していながら、死からは逃れられない運命を背負う彼には、儚い櫻の花のイメージが自分と重なったのではないだろうか。

そう考えると②の「剃刀の話」は、死(惨劇)しかなく、惨劇の対比にある美(生命)を見いだすことのできた①と②の話とは異質にも見える。

いつ来るかもしれない自分の死に、生命の美を見いだすことが出来るかどうかは、死後にしかわからないが、「かげろうの話」と「櫻の話」から、自分の置かれた現在に、省察をめぐらしているのではないだろうか。

この小説は、「俺」が「お前」に話して聞かせる形をとっているが、「俺」も「お前」も、おそらく梶井自身だろう。

「俺」が心の中のもう一人「お前」に話すことにより、ストーリーが鮮明になり、自身の痛切な叫びのようなものを感じる。

凝縮された時間の中での、生のエネルギーからくるものだろうか、その鋭い感受性は美しい輝きを放っている。

Hazakura

青空文庫で5分もあれば読めるのでお勧めする。

« 月日の流れの速いこと | トップページ | 行列が止まった »

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 月日の流れの速いこと | トップページ | 行列が止まった »