2011年4月23日24日の気仙沼

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    気仙沼市唐桑町にの甥一家が東日本大震災で津波の被害に遭遇。お見舞いに駆け付けた時の撮影。

乱読

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2020年1月25日 (土)

過去ブログを読んで再び八木重吉

時々、自分のブログをじっくりと読んでいる。
過去に書いた記事に改めて考えさせられること、継ぎ足して書きたいことが出てくる。

2019年9月16日 (月)に書いた「秋は、これから」で取り上げた八木重吉の詩について、その続きを少々。

八木重吉の詩に、「死」という言葉が頻繁に使われているということで「風が鳴る」と「柿の葉」を取り上げた。
死をどのように認識するかということは、個々人によって違いがあると思う。

Karasu

平成最後の月、4月に実弟を亡くした時に思ったことだが・・・
自分があるものを失った場合、失われたものへの愛惜と共に、事の重大さに今更のように気付かされる。

それと同様に、死を意識した人の目には、周りが新鮮な様相を呈して輝いてくるもののようだ。
二度と取り戻すことのない生への自覚は、同時に二度と見ることのできない周りへの凝縮に繋がる。

自らに残された生の短さに愕然として気付き、周りのものがすべて懐かしく、いとおしいもの、美しいものになってくるのだろう。

そこには、昔からある日本人の死生観(死を自然なものとして受け止めようとする考え方)がある。

つまり、死は生の延長であり、死が生に比べて見劣りする世界だという考えは微塵も存在しない。
したがって、死は決して不吉なものでもないという認識の上で、どこまでも生が肯定されるべきものであるはずだ。

では、八木重吉の捉える死はどうであろうか……

もう一度、「風が鳴る」と「柿の葉」そしてもう一つ「断章」を見てみよう。

とうもろこしに風が鳴る
死ねよと 鳴る
死ねよとなる
死んでゆこうとおもう(「風が鳴る」)


柿の葉はうれしい
死んでもいいといったような
みずからをなみする
そのすがたのよろしさ(「柿の葉」)


もえなければ
かがやかない
かがやかかなければ
あたりはうつくしくない
わたしが死ななければ
せかいはうつくしくない(「断章」)


三作とも明らかに死を肯定し、心を飾らずに言葉にしている。

とうもろこしや柿の葉に死への親近感を見いだし、自分が死ななければ世界は美しくないと詠うには、生からの逃避が伺われ、生への肯定はない。

病に明け暮れた中での現実からの逃避なのか・・・
彼がすでに死を意識し、受け入れる心境に到達しているからであろう。

病に打ち勝とうとする心を捨て、死を美しいものとして受け入れようとすることこそが、彼の心を平安にさせたのかもしれない。

こういう境地は信仰から来るものだろうか。

彼はキリスト教の信者であった。
明らかに信仰の心から詠われたと思われる作品も多い。

しかし、キリスト教の精神は、死は生によって克服されるべきものではなかったのか。

八木重吉の詩をどのように読むのか……死を美化し、生から逃避するのは、果たして病に苦しむ人にとって心癒されるものだろうか疑問だ。

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