2011年4月23日24日の気仙沼

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    気仙沼市唐桑町にの甥一家が東日本大震災で津波の被害に遭遇。お見舞いに駆け付けた時の撮影。

乱読

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2019年12月 7日 (土)

薄い一冊の追悼文集

昨日に続き宮沢賢治のことを書いておこう。

草野心平がいなければ、私たちは宮沢賢治の名前さえ知らなかったであろう。

生前の賢治の作品をひたすら評価していたのは草野心平ただ一人だった。

草野心平の呼びかけによる「同人誌の追悼号」をきっかけに賢治の作品が公開され、今も私たちの目に留まっているばかりではなく、彼の作品が多くの研究者によって無限のヴァリェーションを作り上げている。

賢治が最後の仕事としていたのは東北砕石工場の技師として製品の改造、広告文の起草、製品の注文取り・販売などで、東奔西走していた。
そんななか病床に臥し、肺炎での死を覚悟したのが35歳である。

遺言のつもりで書いたのが「雨ニモマケズ手帳」だ。

賢治は無名の詩人で37歳という若さで死んだ。
死んだときには新聞で知らされることもなく、草野心平によって詩人仲間に知らされるのみだった。

没後、草野心平の企画による同人誌の追悼号で、多くの詩人が寄稿した。
追悼する人は賢治とは直接かかわりのない人がほとんどであったし、生前の彼の作品についても、さほど読んでいない人達だった。

熱烈な賢治ファンだった草野心平が、同時代の有力な詩人たちに追悼記事を頼んで功を奏した。

多くの詩人たちによる「付き合い追悼」だったにもかかわらず、決して手をゆるめることなく、全身全霊で賢治をたたえて追悼記事を書いた。
追悼文を書いた詩人たちは、賢治の生前の詩を精読して初めて絶賛したのだ。

宮沢賢治が広く世に出て、絶賛されるようになったのは、同時代の詩人たちによる薄い一冊の追悼文集による。

Denden

当ブログの2019年5月 8日 (水)2019年8月25日 (日)、2019年10月 5日 (土)にも宮沢賢治関連記事を書いているので参考までに。

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