2011年4月23日24日の気仙沼

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    気仙沼市唐桑町にの甥一家が東日本大震災で津波の被害に遭遇。お見舞いに駆け付けた時の撮影。

乱読

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2019年12月16日 (月)

あたりまえのことが、かけがえのない価値として

切羽詰まった状況にならないと腰を上げない私にとって、 年賀状というものが年の瀬に横たわる一大事だが、今年は身内に不幸があり(平成の終わりに弟が亡くなっている)11月中に「年賀欠礼状」を出しておいた。

今年の正月に受け取った年賀状を確認しながらの作業だったが、その際、改めて送信者それぞれの本文を読み直した。
女の年始はあわただしいので、不覚にも気が付かなかった祝賀に添えられた言葉の数々に今更ながら感動した。

その中のひとつに「『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ』より抜粋」と添え書きされた文面があった。
それは詩で、悪性腫瘍のために亡くなった若い医師が、最後になるであろう正月に家族への新年の挨拶として残した詩「あたりまえ」である。

あたりまえ

こんなすばらしいことを みんなはなぜよろこばないのでしょう

あたりまえであることを

お父さんがいる

お母さんがいる

手が二本あって、足が二本ある

行きたいところへ自分で歩いてゆける

手をのばせばなんでもとれる

音がきこえて声がでる

こんなしあわせはあるでしょうか

しかし、だれもそれをよろこばない

あたりまえだ、と笑ってすます

食事がたべられる

夜になるとちゃんと眠れ、そして又朝がくる

空気をむねいっぱいにすえる

笑える、泣ける、叫ぶこともできる

走れまわれる

みんなあたりまえのこと

こんなすばらしいことを、みんなは決してよろこばない

そのありがたさを知っているのは、それを失くした人たちだけ

なぜでしょう

あたりまえ
               井村和清

生きていることのかけがえなさや、尊さ、そのことに気づくのは、死に直面したときだろう。
今年の4月末に亡くなった弟を見ていて思ったことだが、「末期の眼」というものがある。
死を間近にした者にとって、目に写るもの、耳に聴くもの、全てが二度と取り戻すことのできない、かけがえのない価値として感じられ、それが外界への鋭い凝視となるのだ。

頻繁にブログ更新をしている私が、闘病中の弟について殆ど触れなかったのは、死に近づきつつある弟に対する言ひ難き悲哀感からだ。
千葉の徳洲会病院には数度足を運んだが、その都度苦悶を新にするに弟家族に触れるのが忍びなかった。

死ぬにしても、そんなに早く死ぬとは思っていなかったし、案外、奇跡が起こって治るだろうと思っていた。
死ぬが死ぬまで、死ぬのだとは信じ切れないのが身内というものだ。

一人の人間が一生の間にいくつもの人生を生きることはできない。
実生活において、自分だけの一回限りの人生を体験する。
人生は、時間の長さや短さではない、と思うようにしている。

Izu5

 ・2019年5月 2日 (木)改元で

・2019年6月13日 (木)クモの糸

・2019年5月27日 (月)再び追悼の達人

↑上記記事の下の方で、弟のことについて少しだけ触れている。

Izu1

 

 

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