2011年4月23日24日の気仙沼

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    気仙沼市唐桑町にの甥一家が東日本大震災で津波の被害に遭遇。お見舞いに駆け付けた時の撮影。

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2019年9月16日 (月)

秋は、これから

9月も中旬になるというのに、蒸し暑い日が続いている。
台風15号の影響で、千葉県内では未だ停電、断水が続いている地域があるが、市民生活も限界に達していることと思う。
一日も早く元の生活に戻れるよう願うしかない。

秋は、これから柿が色づき、栗が実り、街路樹にもたわわに実がなって瑞々しい息吹きを伝えてくれる。
その一方で花の終った雑草の淡々とした淋しさもある。
それら全てが詩情をそそるのだから、秋こそ詩情豊かな季節と言えよう。

昨日は八木重吉の詩『貧しき信徒』の中から「お月見」を引用した。
その続きを少しばかり。

(風が鳴る)

とうもろこしに風が鳴る
死ねよと 鳴る
死ねよとなる
死んでゆこうとおもう


(柿の葉)

柿の葉はうれしい
死んでもいいといったような
みずからをなみする
そのすがたのよろしさ

(『貧しき信徒』より)

上に抜き出した二編からだけでも伺われるように、八木重吉の詩には「死」という言葉が頻繁に使われている。
しかし、この詩で歌われる「死」に、なんの不安も感じられない。
風になびく「とうもろこし」は、「死ねよ」と鳴っているから死んでいくのだ、と躍動感さえ感じる。

生あるものみな死んでいく、当たり前のことを当たり前として認識できないのが人間の常だが、病に明け暮れ死を意識した重吉の目には、自然のものとして「死」を受け止めることが出来たのだろう。

「柿の葉」に死への意識をたくす彼の境地は、自らに残された生の短さを思う極致だったのでは・・・。

Hosigaki
 

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