2011年4月23日24日の気仙沼

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    気仙沼市唐桑町にの甥一家が東日本大震災で津波の被害に遭遇。お見舞いに駆け付けた時の撮影。

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2019年6月21日 (金)

再びカフカ「夜曲」より

『カフカ 傑作短編集』(長谷川四郎訳 福武文庫)のなかに「夜曲」という作品がある。
夜曲、つまり音楽で言うならばセレナード、あるいはノクターンである。
きわめて短い作品だから、ここで全文を書き出してみる。

「夜の中に沈潜して。時あって人が熟考するために頭を垂れるそのように、まったく夜の中に沈潜している。周囲では、人々が眠っている。彼らが家の中で眠っているのは、小さな喜劇、無邪気な自己欺瞞である――しっかりした屋根の下の、しっかりしたベッドの上で、蒲団の上に長くなり、ちぢこまったりして、シーツや毛布にくるまって。だが実際は、彼らはかつてのようにまた今後のいつかのように、荒野に集合したのである。風にはためく露営の幕舎、数限りもない人間たち、一つの軍団、一群の民、冷たい空の下の冷たい地上で、さっきまで立っていた場所に身を投げ出し、額を腕に押し当てて。……そして眼ざめているお前、お前は不審番の一人、お前は燃えている松明を打ち振って、お前のそばに最も近くにいる者を見出すのである。なぜお前は眼をさましているのか?誰か一人が眼をさましていなくてはならぬ、ということである。誰か一人がそこに出ていなくてはならないのだ。」(長谷川四郎訳 福武文庫『カフカ 傑作短編集』「夜曲」より)

カフカは書簡集以外、殆どの作品を三人称で書いたといわれているが、やはりこの作品も三人称で書かれていると言える。
ここに出てくる「お前」も、お互いに対応しての呼びかけではないから三人称と理解して良いだろう。
カフカはマックス・ブロートによって、中短編の小説のほか数多くの手紙と日記を公開された。
これらの手紙や日記の類からうかがわれる実生活が、小説の進行と一致し、そのストーリーは、彼の内奥を物語るものであるとされている。
このような視点から見ると、この「夜曲」の中の「お前」は、カフカ自身と解釈して良いだろう。
彼は夜の底に沈んでいるのだ。
眠っているのではなく、眠れずに頭をたれさげて苦悩しているのだ。
日常的にこういう状態にあったカフカが、「お前」を用いて自身を描いているのだろう。
本来安らぎの場所であるはずのベッドに横たわる人々を、自己欺瞞と言い、更には荒野に集合させ、異様な不安材料で置き換えることを想定することによって、自己の生き方の正当さを確信させているのではないだろうか。
目ざめているのは自分で、その自分が寝ずの番をしていなければならないと言い切る。
そう言い切ることによって、自己を確認したいという願望がある。
そこには、自己のネガティブな本質に冷ややかに浸っているカフカがある。
それにしてもカフカは、現代社会の人々の孤独や不安に相通じるものがある。
現代の悩める人間そのものだとも言えるのではなかろうか。

カフカにおける「夜曲」は、その背後に孤独や不安が存在する。
音楽における「夜曲」は、ロマンチックなものや喜びが存在する。
カフカ文学と音楽を比較すること自体おかしいが、あえて共通項を探すとなると、どちらも夜のしじまにふさわしい。

Kad

 

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