2011年4月23日24日の気仙沼

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    気仙沼市唐桑町にの甥一家が東日本大震災で津波の被害に遭遇。お見舞いに駆け付けた時の撮影。

乱読

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2019年6月20日 (木)

『変身』より

マックス・ブロートがいなければ、私たちはカフカの名前さえ知らなかったであろう。カフカは自分の死に際して友人のブロートに、自作の一切を焼却するように頼んだ。
もしブロートがカフカの遺言を裏切らなかったならば、私たちはカフカの作品にお目にかかることもなかったのだし、とめどもない解釈もなかったわけである。

「マックス・ブロートはカフカと彼の作品のイメージを創りだしたが、それと同時にカフカ学をも創りだした。カフカ学者達はその創始者と距離を置きたがるとはいえ、創始者が彼らのために確定した土壌の外に出ることはけっしてない。カフカ学はそのテクストの天文学的な量にもかかわらず、無限のヴァリェーションのかたちで、つねに同じ言説、同じ思弁を展開し、その言説、思弁はだんだんカフカの作品から独立してゆき、自分で自分を養うほかはなくなっている。カフカ学は無数の序文、後記、注記、伝記と専門研究、大学の講演と博士論文などによって、固有のカフカ像を生産、維持し、その結果、読者がカフカという名前で知っている作家はもはやカフカではなく、カフカ学化されたカフカになってしまった。」

(ミラン・クンデラ『裏切られた遺言』)


『変身』より

夢、ときにそこは摩訶不思議な事象に満ちあふれている。

それをいかに受け止めていいのか分からないまま、夜毎、夢を見続ける。

あるとき私は、夢の中で奇怪な動物に変身したことがある。

頭が異様に大きく、火山灰のようなくすんだ色をし、目も異常に大きかった。

この世に存在しないような、いつか映画で見た宇宙人のような奇怪な姿に変身した私は、考える生体としての人間の精神を持っていたから、あまりの怖さにひたすら走り回っていた。だが、朝になって夢から目覚めれば、私は元通りの人間に戻っていた。

――夢には無意味なものは何ひとつない――と思っているから、たとえ私が夢の中でいかなる妖怪になろうとも、私は私自身の心のうちを知るために夢解釈を楽しんでいると、仮にそうしておこう。

カフカの『変身』は、読み出しが衝撃的だった。

「ある朝、グレゴール・ザムザがなにかおだやかならぬ夢からさめたとき、ベッドのなかで自分が1匹のとてつもない虫けらに変身しているのを発見した。」……この冒頭の一文には、はじめから度肝を抜かされた。本当なら、夢から覚めたときには、元の姿に戻っているはずである。

『変身』は夢ではない、夢から目覚めたときである……人間が等身大の虫けらに変身するという、この異常はどこからくるのであろうか。それについての動機付けはなく、あまりにも唐突な冒頭である。

しかしこの唐突さもユーモアと取れば良いことが分かる。

主人公グレゴール・ザムザは、この変身を非常に現実的なもののなかに考えていた。はじめの部分に書かれているように、彼は父が破産したとき以来、両親と妹を扶養するしがないセールスマン。たとえ、彼が家族愛に溢れていたとしても、彼の心のうちには、貧しい日常生活からの逃避の気持があったに違いない。

――サラリーマン生活にも嫌気がさしていたし、少しの間、なまけてみるのも良いだろう。開き直って虫としてくたばるか――グレゴールのこうした不埒な考えは、日常性からの逃避そのものである。だから彼をして、この変身を苦痛だとは感じさせない……そこにユーモアを見ることができる。そのユーモアをだれか理解してくれればいいのだが、周囲の目は冷たかった。

居間に顔を出したグレゴールの姿を見て、母はへとへとになって床に座り込み、父は怒り狂い、彼を自分の部屋に追い返そうと、ステッキを荒々しく振り上げた。グレゴールはそのとき、父の振り上げたステッキで肢を一本傷つけ、白く塗った空の部屋のドアに不気味な斑点を残した。

そうした最初の異変以来、一家にはいろんな変動があった。家族は、この家族の一員の変身という大事件を乗り越えるために、一家の再建を始める。父は銀行の小使いとして勤めに出るようになったし、母は内職仕事に精をだし、妹は店員になった。

ある日、グレゴールは父の投げたリンゴで重傷を負った。彼が本当の苦痛を覚えたのは、もしかして、このときが初めてだったのかも知れない。彼が可愛がっていた妹にも突き放され、しだいに孤独になっていく。彼のユーモアは、結局、だれにも理解されることはなかったのだから、もはや悲惨なユーモアとしか言いようがない。

一体、彼にとって何のための変身だったのか……

リンゴで負った変身は、体の衰弱を加速させ、三月末に近いころ、彼はついにくたばった。息絶えた姿を手伝い女に発見されたのである。

「さて、これで神様に感謝できるというものだ」と父は言い、家族は心機一転、新しい生活に向けて門出を飾るべく郊外に散歩に出かける。グレゴールの変身と死は、一家のために逆に利用されてしまったという冷酷な文体に鬼気迫るものがある。

カフカはさまざまに読まれ、さまざまに解釈されているが、それは一面ではカフカの難解さを物語っているのかも知れない。

岩波文庫から出ている『カフカ短編集』の訳者・池内紀は、カフカの特徴を「事実が揺らぎだす一点があって、それは普通の日常の世界ではありえないはずのレベルにおいて平然と報告される」と言っているが、『変身』にあっても確かにそれが言える。

初めにグレゴールが父親の借金をめぐる事実が語られていた。ところがグレゴールが人間から虫に変身したとき、事実ががらりと変化する。父はもはや借金で首が回らない男でもなんでもない。

二年間は、楽に食っていけるだけの隠し金を持った悪賢い怠け者である。グレゴールにとっては何も信用ならない。

彼は正常な生活を失ってしまった。

その生活とは、本当にこっそりとしか、不気味な斑点のある白いドアを開けることによってしか、外界と交流できなくなった虫の姿をした人間を示している。彼の心の中では、人間と虫の境界線が消え失せていたのであり、そこに衝撃がある。

『変身』におけるカフカのこの想像力はどこからくるのか……必ずしも理解できるわけではないのに妙に魅了される。

先にも言ったが、グレゴールの変身願望には現実感があった。

状況次第で全く変貌する人間の側面を、等身大の虫けらに変身するという本当らしくないことで正当化しようとするカフカの想像力と結びついている並外れた現実感に、彼自身の精神が現れているのかも知れない。それにしてもカフカの想像力に驚かされる。

しばし、カフカの作品の主人公はカフカ自身であるといわれる。カフカがただならぬテーマを、きらめくばかりの文体にくるんだのは、彼自身の生活から汲み取ったからであろう。

人間カフカは、激しい父親コンプレックスに悩まされていたし、家庭的にも除け者にされていたという。彼の作品が自己断罪に終わるものが多いのも、彼のそうした精神の現れであり、彼の人生そのものを文学の中に溶解しているからだろう。

さて、再び私の夢に戻ろう。

夢の中で奇怪な動物に変身した私は、考える主体としての人間の精神を持っていた。だから変貌してしまった奇怪な自分の姿に恐れをなして、走り回っていたのだろう。これは、私が人間の定義をホモ・サピエンスとして捉えているからであると思う。

ホモ・サピエンス……二本足で理性人であるとか、道具を使うとかいう、この粗雑きまわる人間定義にたいして、幻想人とか宇宙人とかいう、もっと幅広い人間定義があるならば、私は優雅に夢の続きを見ることができたであろうに……残念なことに人間は、己の作り出したシステム内にいたずらに自足し、そのシステム内的な整合性のみにこだわっている。

ときとして私は、そのシステムからはみ出したい願望にかられる。日常生活からの逃避の気持である。

それが変身願望として夢の中に現れるのかも知れない。とは言うものの、朝、目覚めれば、私はホモ・サピエンスたる元の私であることに安堵してしまうこととの矛盾は、一体どこからくるのであろうか?

『変身』は生身の人間、グレゴール・ザムザにふりかかった大異変である。

果たしてそれが現実なのか、夢なのか……いや、夢ではない、朝、夢から覚めたら……となっているから、もしかして夢の中の夢なのかも知れない。

結局、最後まで分からずに終わっている。ここにカフカ文学の幻想性があるのかも知れない。

ただはっきり言えることは、カフカ文学は追い詰められた人間生活の中に、銀色の仄かな反射光を送ってくれるポエジーであり、それが人生と文学表現の一致として、読むものに感動を与えてくれるということである。

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※ちなみにこの感想文「『変身』より」は、昔やっていたホームページ「オクターブ」の再アップ。

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