2011年4月23日24日の気仙沼

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    気仙沼市唐桑町にの甥一家が東日本大震災で津波の被害に遭遇。お見舞いに駆け付けた時の撮影。

乱読

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2019年6月

2019年6月30日 (日)

6月も終わり

 
 
6月も終わり7月を新たな気分で迎えたいけど、どうやら、7月に入っても1週間ほど雨が続く模様。
時に雨好きな私でも、何もかも湿っぽくなる日が続くと思うと、めいってしまう。
九州では降り続く雨により、複数の市町村に土砂災害警戒情報(警戒レベル4相当情報)が出ているとのこと。
私のうっとおしいレベルどころではない。

それにしても月日の流れは早いもので、日に日に老いを感じる。
テレビを見ていても、出演者の名前が出てこない。
前にも書いた(2019年2月21日「ロマンがリアルに負ける」)が、これからは下降一直線。

老いと死という現実を受け入れたくない時、人はさみしく、悲しくなる。
老いていく自分の体を愛しく思いながら、精一杯自分らしく生きる方が良いのかな・・・。

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古今和歌集のなかに藤原良房のこんな歌がある。
「年ふれば よはひは老いぬ しかはあれど 花をし見れば 物思ひもなし」

現代語訳は
「年がたったので、私はすっかり老いてしまった。そうであるけれども、この花(わが娘である染殿后)を見ていると、何も思い煩うことがない気持ちになる。」(くすらん参照)
詞書(前書き)に、「染殿の后の御前に、花瓶に桜の花をささせたまへるを見てよめる」(染め殿の后の前で桜の花を活けてあるのを見て詠んだ)とあるが、花をわが子に見立てている。
染殿后(そめどののきさき)は、文徳天皇の妻で藤原良房の娘。
自分は年をとってしまったが、自分の娘が皇后となった姿を見て満足感にひたっている父の心情を詠っている。

年と共に心も体もくすぶっていくのは当然だが、せめて周りの美しい花にでも心を寄せて満ち足りた気分に浸ってみよう。

2019年6月29日 (土)

スタミナ切れ

夕食を終え、入浴を終えてパソコンの前に座ると、どっと疲れが押し寄せてくる。
スタミナドリンクを飲んでココログを開くのだが、書こうと思うことが頭の中に明確にあるはずなのに、入力の段階で言葉が浮かばない。

いや・・・明確であるはずだ、と思っていたことが実はほんの断片だけで、それを繋ぎ合わせる思考が働かないのだ。
スタミナ切れ・・・なるほど、思考はスタミナドリンクで効くわけない。


大阪で開かれたG20サミットだが、議長国の日本が慣例に反し、G7の前に開催した。
巨額の国費を投入し、大規模な交通規制や検問など厳戒態勢で、大阪市内の小中学校は臨時休校になったとか・・・。
それもこれも、参院選向けの大掛かりな事前運動だ。
28日の歓迎夕食会では、開催国として議長を務める安倍さんがとんでもない挨拶をした。

「大阪のシンボルである大阪城は16世紀に築城された」、続けて明治維新の混乱による焼失後、天守閣の復元工事が行われたとした上で、「しかし1つだけ、大きなミスを犯した。エレベーターまで付けてしまった」と言ったのだ。
世界遺産などでも、できる限りバリアフリーを実現しようというのが世界の流れだというのに、G20でバリアフリーに逆行発言で、批判は免れない。笑いでもとるつもりだったのかも知れないが、不謹慎極まる発言としか言いようがない。

それにしても、安倍政権で目立つのは、国内世論の受けを優先させる姿勢だ。

2019年6月28日 (金)

昨日に続き、新たな公認候補予定者

「れいわ新選組」は、今日28日、新たに公認候補予定者発表した。
重度障害のある木村英子さん(54)だ。
詳しい経歴については「れいわ新選組」のホームページ『選挙』で見られる。

木村さんは車椅子に座った状態で山本代表と並んでの会見。
その様子を見ていて、山本太郎さんの目指す未来と本気度に胸が震え、涙が出た。
木村英子さんの話はとてもわかりやすく、自分の主張を的確に伝えられる人だ。
生後八ヶ月の時に、歩行器ごと転倒以来の障害者生活。
「普段の生活の中に障害者が少なく、健常者との間で心のバリアーが大きい。自分の体をもって障害者政策を少しでも変えたい」と言われたが、当事者感覚がひしひしと伝わってきた。
何はともあれ、会見の模様をでご覧いただきたい。

れいわの擁立候補は代表を含め4人目。
蓮池透さん、やすとみ歩(安富歩)さん、木村英子さんと、異色の3人に出馬を決意させたのは、山本太郎さんの誠実さと意欲あってのこと。
候補者を選挙区と比例区にどう振り分けるか今後決めるとしている。
それにしても、太郎さんの慧眼には敬服。
山本太郎さんとならば、今の腐りきった日本を変えていけるのではないか・・・今度の参院選は、有権者こそが試される。

Sutendo

 

2019年6月27日 (木)

「れいわ新選組」の新候補者

「れいわ新選組」は、蓮池透さんに続く新しい候補者を発表した。
マイケル・ジャクソン研究で有名な東京大学東洋文化研究所教授の安冨歩さんだ。
安冨さんは、女性装の教授としても知られている。
詳しい経歴については「れいわ新選組」のホームページ『選挙』で見られる。

経済の専門家である安富さんが加わったことで、「れいわ新選組」の強固なブレーンができた。
今日の記者会見では、頷けることばかり。

「経済」を根本から問い直す。・・・
「東京タワーを建てて新幹線を建てて大阪万博をして東京オリンピックをやったら経済成長したから、スカイツリー、リニア新幹線、大阪万博、オリンピックをしたら、もう一度経済成長すると考えている狂気。それは、雨乞いだ。」

「子供」を守る・・・
「子供」が幸福である世界は、全ての人が幸福になれる世界だ。

会見終了間際に、安冨さんはマイクをとり、最も尊敬している議員として、2002年に暗殺された民主党所属の石井紘基さんの名前をあげた。
(石井さんは、国政調査権を用いて、国会議員や官僚の腐敗を徹底追及していた)
石井紘基さんの暗殺以降に国政調査権が、自由に行使されていないという話を聞いたことがあるが、安富さんは「国勢調査権を用いて日本社会の、国民国家システムがどういう形をしていて、どういう風に機能しているのか、それを解明していきたいと思っている。」それが、積極的に議員になる意味であると述べている。

会見を聞いて、話すことが全て心に入ってきた。
とても良い人選だと思うと同時に、蓮池透さんに続き、安冨歩さんと、山本太郎さんの人選の目は鋭い。

 

2019年6月26日 (水)

再びコーヒーブレーク

先日書いた谷崎潤一郎という作家の流言の続き。
流言と言っても、まんざら根拠がないわけでない。

谷崎の晩年の創作意欲をかき立てたのは、やはり、48歳の時に同棲、49歳で結婚した松子夫人だった。
松子夫人は、元は根津商店という大阪の綿布問屋・根津清太郎の妻で、ピアノ堪能、書道の名人の才女。
夫の色遊びで家運が傾いた時、ダンスホールの経営に乗り出し、そこで谷崎と知り合った。

谷崎は、松子夫人を名前で呼ばずに「御主人様」と呼ぶなどマゾヒストな仮面を被り、捨て身な態度だが、そうした被虐的日常をバネとして創作意欲を燃やしたところに凄みがある。
実際、『春琴抄』は、谷崎と松子夫人の恋愛が最高潮であった頃に書かれている。

その松子夫人への谷崎の手紙が凄まじい。
「御主人様、どうぞどうぞ御願いでございます。御機嫌を御直し遊ばして下さいまし・・・決して決して身分不相応な事は申しませぬ故一生私を御側において、御茶坊主のように思し召して御使い遊ばして下さいまし。御気に召しませぬ時はどんなにいじめて下さっても結構でございます・・・」(『追悼の達人』嵐山光三郎著/新潮社)
卑屈なまでのへりくだり、恋人の名を呼ばず、ひたすら「御主人様」とひざまずき拝む マゾヒスティックな日常は、『春琴抄』の中で、狂おしいほどに春琴を崇拝し、忠誠を誓う佐助の様子に酷似するものがある。
松子夫人がどのように応じたかはわからないが、谷崎の小説が二人の間に交わされた手紙により、さらに内容の濃いものになったことは確かだろう。

Tenjilyo

 

2019年6月25日 (火)

アジサイ

人間は勝手なもので、雨が続くとうっとうしくてたまらない気持になり、雨を恨めしくさえ思うようになる。
ところが昨日、今日の空梅雨にもうんざり……風もなく、湿気が多いから不快な暑さだ。
それでもアジサイの七変化が、この時期の庭を楽しませてくれている。
咲き始めのころの白から、次第に青くなり、紫やピンクにと、様々な色に変わっていく。
そんな風に何度も色変わりするところから、浮気者のことを「あじさい」というらしい。

この「あじさい」を象徴するような内容の永井荷風の「あぢさゐ」という短編がある。
生来の浮気者のお君という女が男から男へ渡り歩き、最後には新内流しの〆蔵に背中を一突刺されてしまうという話。
文章の中にアジサイの花そのものは出てこないが、『あぢさゐ』というタイトルそのものが内容になっている。

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植物学者の牧野富太郎によれば、アジサイは純粋に日本産の名花の一つだが、日本産だからと言って「紫陽花」と書くのは間違いで、「アジサイ」が正しいとのこと。
「日本語で漢字表記に用いられる『紫陽花』は、唐の詩人白居易が別の花、おそらくライラックに付けた名で、平安時代の学者源順がこの漢字をあてたことから誤って広まったといわれている。」(『ウィキペディア(Wikipedia)』による)

今まで、私はあじさいの表記を「紫陽花」としてきたが、「アジサイ」が正解ということだ。

2019年6月24日 (月)

コーヒーブレーク

今日はちょっとコーヒーブレークのつもりで流言を。

谷崎潤一郎という作家は、三番目の妻である松子夫人(「細雪」のモデルにもなった人)を女王様のように崇め、
終世、彼女の下僕になりきったという。
たとえば、食事のときも彼女を上座に坐らせて、自分は彼女の食事が終わるまで下座に控えていた。
掃除洗濯など一切の家事をやらせず、高尚な芸術を鑑賞する彼女に下僕のように付いて行ったという。
夫人が妊娠したとき、谷崎は堕胎させた。

理由は、夫人が子供を生んで普通の女になるのが耐えられなかったということか・・・
実生活を素材としている谷崎だけに、子供ができたことによって、彼女に平凡な家庭を築かれたら自分の作品も終わりだと思ったのか・・・

Zenzai

2019年6月23日 (日)

沖縄全戦没者追悼式

3カ月近くに及んだ国内最大の地上戦「沖縄戦」は、県民の4人に1人が犠牲となった。
その犠牲者を追悼する「慰霊の日」を迎えた今日、「沖縄全戦没者追悼式」が糸満市の平和祈念公園で行われた。

玉城知事は全国の米軍専用施設の約7割が沖縄に集中している現状にも言及。
「全ての人の尊厳を守り誰一人取り残すことのない多様性と寛容性にあふれる平和な社会を実現するため、全身全霊で取り組む」という平和宣言をした。

糸満市の小学校6年・山内玲奈さんの「本当の幸せ」と題した自作の詩の朗読が胸を打たれる。

「沖縄県の基地負担を軽減する。」と言いながら、辺野古に新米軍基地を建設米軍に寄り添う安倍総理。
いつもながらの聞こえの良いセリフを並べて、淡々と読むだけで心がない。

 

2019年6月22日 (土)

ノクターン

夜のしじまというのは、なんとも抒情的だ。
暗い街に灯る窓の明かりの一つ一つに、飛んで行きたい衝動が起きる。
人は別々に生まれ、別々に死んでいかなければならない。
みんな孤独なんだと思うと、人間がなんとも愛しく感じられる。
私は今、ショパンのノクターンを聴きながら、この記事を書いている。
この曲で思いだされるのが、かなり昔の映画……白血病で死んだピアニスト、エディ・デューチンの伝記を描いた1956年のアメリカ映画「愛情物語」だ。
あの中にに流れるテーマ曲の“トゥ・ラブ・ アゲイン”こそ、エディー・デューチンが良く弾いたショパンの「夜想曲第2番変ホ長調」(作品9番の2)である。
「愛情物語」は、この夜想曲を元にジョージ・シドニー(監督)とモリス・W・ストロフ(音楽)が共作した作品である。
主役のエディには、タイロン・パワーが扮していたが、実際のピアノの 音はカーメン・キャバレロの吹き替えだった。
この映画を私が見たのは、50年以上も前のことだ。
映画の内容はともかく、最初から最後まで流れるピアノの旋律が甘く切なく、心を揺さぶられた。
元々、夜想曲はジョン・フィールドによって作り出されたものだ。
1832年から33年までパリに滞在していたショパンは、これに影響を受け、彼独自の夜想曲を芸術的に完成させた。
アリア・ジョアン・ピリスの弾いている全曲盤は全21曲、すべてにうっとりさせられるが、第2番(作品9番の2)が私の最も好む作品である。それにしても、夜のしじまに聴くには、あまりにもセンチメンタルすぎる。

1ningilyo

2019年6月21日 (金)

再びカフカ「夜曲」より

『カフカ 傑作短編集』(長谷川四郎訳 福武文庫)のなかに「夜曲」という作品がある。
夜曲、つまり音楽で言うならばセレナード、あるいはノクターンである。
きわめて短い作品だから、ここで全文を書き出してみる。

「夜の中に沈潜して。時あって人が熟考するために頭を垂れるそのように、まったく夜の中に沈潜している。周囲では、人々が眠っている。彼らが家の中で眠っているのは、小さな喜劇、無邪気な自己欺瞞である――しっかりした屋根の下の、しっかりしたベッドの上で、蒲団の上に長くなり、ちぢこまったりして、シーツや毛布にくるまって。だが実際は、彼らはかつてのようにまた今後のいつかのように、荒野に集合したのである。風にはためく露営の幕舎、数限りもない人間たち、一つの軍団、一群の民、冷たい空の下の冷たい地上で、さっきまで立っていた場所に身を投げ出し、額を腕に押し当てて。……そして眼ざめているお前、お前は不審番の一人、お前は燃えている松明を打ち振って、お前のそばに最も近くにいる者を見出すのである。なぜお前は眼をさましているのか?誰か一人が眼をさましていなくてはならぬ、ということである。誰か一人がそこに出ていなくてはならないのだ。」(長谷川四郎訳 福武文庫『カフカ 傑作短編集』「夜曲」より)

カフカは書簡集以外、殆どの作品を三人称で書いたといわれているが、やはりこの作品も三人称で書かれていると言える。
ここに出てくる「お前」も、お互いに対応しての呼びかけではないから三人称と理解して良いだろう。
カフカはマックス・ブロートによって、中短編の小説のほか数多くの手紙と日記を公開された。
これらの手紙や日記の類からうかがわれる実生活が、小説の進行と一致し、そのストーリーは、彼の内奥を物語るものであるとされている。
このような視点から見ると、この「夜曲」の中の「お前」は、カフカ自身と解釈して良いだろう。
彼は夜の底に沈んでいるのだ。
眠っているのではなく、眠れずに頭をたれさげて苦悩しているのだ。
日常的にこういう状態にあったカフカが、「お前」を用いて自身を描いているのだろう。
本来安らぎの場所であるはずのベッドに横たわる人々を、自己欺瞞と言い、更には荒野に集合させ、異様な不安材料で置き換えることを想定することによって、自己の生き方の正当さを確信させているのではないだろうか。
目ざめているのは自分で、その自分が寝ずの番をしていなければならないと言い切る。
そう言い切ることによって、自己を確認したいという願望がある。
そこには、自己のネガティブな本質に冷ややかに浸っているカフカがある。
それにしてもカフカは、現代社会の人々の孤独や不安に相通じるものがある。
現代の悩める人間そのものだとも言えるのではなかろうか。

カフカにおける「夜曲」は、その背後に孤独や不安が存在する。
音楽における「夜曲」は、ロマンチックなものや喜びが存在する。
カフカ文学と音楽を比較すること自体おかしいが、あえて共通項を探すとなると、どちらも夜のしじまにふさわしい。

Kad

 

2019年6月20日 (木)

『変身』より

マックス・ブロートがいなければ、私たちはカフカの名前さえ知らなかったであろう。カフカは自分の死に際して友人のブロートに、自作の一切を焼却するように頼んだ。
もしブロートがカフカの遺言を裏切らなかったならば、私たちはカフカの作品にお目にかかることもなかったのだし、とめどもない解釈もなかったわけである。

「マックス・ブロートはカフカと彼の作品のイメージを創りだしたが、それと同時にカフカ学をも創りだした。カフカ学者達はその創始者と距離を置きたがるとはいえ、創始者が彼らのために確定した土壌の外に出ることはけっしてない。カフカ学はそのテクストの天文学的な量にもかかわらず、無限のヴァリェーションのかたちで、つねに同じ言説、同じ思弁を展開し、その言説、思弁はだんだんカフカの作品から独立してゆき、自分で自分を養うほかはなくなっている。カフカ学は無数の序文、後記、注記、伝記と専門研究、大学の講演と博士論文などによって、固有のカフカ像を生産、維持し、その結果、読者がカフカという名前で知っている作家はもはやカフカではなく、カフカ学化されたカフカになってしまった。」

(ミラン・クンデラ『裏切られた遺言』)


『変身』より

夢、ときにそこは摩訶不思議な事象に満ちあふれている。

それをいかに受け止めていいのか分からないまま、夜毎、夢を見続ける。

あるとき私は、夢の中で奇怪な動物に変身したことがある。

頭が異様に大きく、火山灰のようなくすんだ色をし、目も異常に大きかった。

この世に存在しないような、いつか映画で見た宇宙人のような奇怪な姿に変身した私は、考える生体としての人間の精神を持っていたから、あまりの怖さにひたすら走り回っていた。だが、朝になって夢から目覚めれば、私は元通りの人間に戻っていた。

――夢には無意味なものは何ひとつない――と思っているから、たとえ私が夢の中でいかなる妖怪になろうとも、私は私自身の心のうちを知るために夢解釈を楽しんでいると、仮にそうしておこう。

カフカの『変身』は、読み出しが衝撃的だった。

「ある朝、グレゴール・ザムザがなにかおだやかならぬ夢からさめたとき、ベッドのなかで自分が1匹のとてつもない虫けらに変身しているのを発見した。」……この冒頭の一文には、はじめから度肝を抜かされた。本当なら、夢から覚めたときには、元の姿に戻っているはずである。

『変身』は夢ではない、夢から目覚めたときである……人間が等身大の虫けらに変身するという、この異常はどこからくるのであろうか。それについての動機付けはなく、あまりにも唐突な冒頭である。

しかしこの唐突さもユーモアと取れば良いことが分かる。

主人公グレゴール・ザムザは、この変身を非常に現実的なもののなかに考えていた。はじめの部分に書かれているように、彼は父が破産したとき以来、両親と妹を扶養するしがないセールスマン。たとえ、彼が家族愛に溢れていたとしても、彼の心のうちには、貧しい日常生活からの逃避の気持があったに違いない。

――サラリーマン生活にも嫌気がさしていたし、少しの間、なまけてみるのも良いだろう。開き直って虫としてくたばるか――グレゴールのこうした不埒な考えは、日常性からの逃避そのものである。だから彼をして、この変身を苦痛だとは感じさせない……そこにユーモアを見ることができる。そのユーモアをだれか理解してくれればいいのだが、周囲の目は冷たかった。

居間に顔を出したグレゴールの姿を見て、母はへとへとになって床に座り込み、父は怒り狂い、彼を自分の部屋に追い返そうと、ステッキを荒々しく振り上げた。グレゴールはそのとき、父の振り上げたステッキで肢を一本傷つけ、白く塗った空の部屋のドアに不気味な斑点を残した。

そうした最初の異変以来、一家にはいろんな変動があった。家族は、この家族の一員の変身という大事件を乗り越えるために、一家の再建を始める。父は銀行の小使いとして勤めに出るようになったし、母は内職仕事に精をだし、妹は店員になった。

ある日、グレゴールは父の投げたリンゴで重傷を負った。彼が本当の苦痛を覚えたのは、もしかして、このときが初めてだったのかも知れない。彼が可愛がっていた妹にも突き放され、しだいに孤独になっていく。彼のユーモアは、結局、だれにも理解されることはなかったのだから、もはや悲惨なユーモアとしか言いようがない。

一体、彼にとって何のための変身だったのか……

リンゴで負った変身は、体の衰弱を加速させ、三月末に近いころ、彼はついにくたばった。息絶えた姿を手伝い女に発見されたのである。

「さて、これで神様に感謝できるというものだ」と父は言い、家族は心機一転、新しい生活に向けて門出を飾るべく郊外に散歩に出かける。グレゴールの変身と死は、一家のために逆に利用されてしまったという冷酷な文体に鬼気迫るものがある。

カフカはさまざまに読まれ、さまざまに解釈されているが、それは一面ではカフカの難解さを物語っているのかも知れない。

岩波文庫から出ている『カフカ短編集』の訳者・池内紀は、カフカの特徴を「事実が揺らぎだす一点があって、それは普通の日常の世界ではありえないはずのレベルにおいて平然と報告される」と言っているが、『変身』にあっても確かにそれが言える。

初めにグレゴールが父親の借金をめぐる事実が語られていた。ところがグレゴールが人間から虫に変身したとき、事実ががらりと変化する。父はもはや借金で首が回らない男でもなんでもない。

二年間は、楽に食っていけるだけの隠し金を持った悪賢い怠け者である。グレゴールにとっては何も信用ならない。

彼は正常な生活を失ってしまった。

その生活とは、本当にこっそりとしか、不気味な斑点のある白いドアを開けることによってしか、外界と交流できなくなった虫の姿をした人間を示している。彼の心の中では、人間と虫の境界線が消え失せていたのであり、そこに衝撃がある。

『変身』におけるカフカのこの想像力はどこからくるのか……必ずしも理解できるわけではないのに妙に魅了される。

先にも言ったが、グレゴールの変身願望には現実感があった。

状況次第で全く変貌する人間の側面を、等身大の虫けらに変身するという本当らしくないことで正当化しようとするカフカの想像力と結びついている並外れた現実感に、彼自身の精神が現れているのかも知れない。それにしてもカフカの想像力に驚かされる。

しばし、カフカの作品の主人公はカフカ自身であるといわれる。カフカがただならぬテーマを、きらめくばかりの文体にくるんだのは、彼自身の生活から汲み取ったからであろう。

人間カフカは、激しい父親コンプレックスに悩まされていたし、家庭的にも除け者にされていたという。彼の作品が自己断罪に終わるものが多いのも、彼のそうした精神の現れであり、彼の人生そのものを文学の中に溶解しているからだろう。

さて、再び私の夢に戻ろう。

夢の中で奇怪な動物に変身した私は、考える主体としての人間の精神を持っていた。だから変貌してしまった奇怪な自分の姿に恐れをなして、走り回っていたのだろう。これは、私が人間の定義をホモ・サピエンスとして捉えているからであると思う。

ホモ・サピエンス……二本足で理性人であるとか、道具を使うとかいう、この粗雑きまわる人間定義にたいして、幻想人とか宇宙人とかいう、もっと幅広い人間定義があるならば、私は優雅に夢の続きを見ることができたであろうに……残念なことに人間は、己の作り出したシステム内にいたずらに自足し、そのシステム内的な整合性のみにこだわっている。

ときとして私は、そのシステムからはみ出したい願望にかられる。日常生活からの逃避の気持である。

それが変身願望として夢の中に現れるのかも知れない。とは言うものの、朝、目覚めれば、私はホモ・サピエンスたる元の私であることに安堵してしまうこととの矛盾は、一体どこからくるのであろうか?

『変身』は生身の人間、グレゴール・ザムザにふりかかった大異変である。

果たしてそれが現実なのか、夢なのか……いや、夢ではない、朝、夢から覚めたら……となっているから、もしかして夢の中の夢なのかも知れない。

結局、最後まで分からずに終わっている。ここにカフカ文学の幻想性があるのかも知れない。

ただはっきり言えることは、カフカ文学は追い詰められた人間生活の中に、銀色の仄かな反射光を送ってくれるポエジーであり、それが人生と文学表現の一致として、読むものに感動を与えてくれるということである。

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※ちなみにこの感想文「『変身』より」は、昔やっていたホームページ「オクターブ」の再アップ。

2019年6月19日 (水)

曖昧な記憶

2019年3月 8日 (金)「桃なのか、桜なのか、咲き遅れた梅なのか・・・」の記事の中に、昔読んだ本『眠れぬ夜の過ごし方』の内容や、作者を、すっかり忘れてしまったと書いた。
古い記憶媒体を探していたら、CD-Rにwordで筒井康隆編『いかにして眠るか』の感想メモが見つかった。

おそらく曖昧さゆえに記憶をたどろうとするのだろうが、私の記憶は、やっぱり曖昧だった。
この数か月、一生懸命に思い出していた『眠れぬ夜の過ごし方』という本だが、タイトルが違っていた。
正しくは、筒井康隆編『いかにして眠るか』だった。
曖昧さはフィードバックを要する、だから探すのにも一生懸命になった。
以下、見つかったメモ。

この本の最初に紹介してあるのが、ロバート・ベンチリーの「HOW TO SLEEP」という映画の話で、眠れるどころか墓穴を掘るに等しい。
眠りは脳から血液が出て行くことによって引き起こされるというから、映画の中の主人公は脳から血液を引き出す方法を色々試す。
熱いパイン風呂にはいる、浴用塩入りの風呂に入る、ホットミルクを飲む、色々試して一応体が温まったところで再びベッドに入ろうとしたものの、余ったホットミルクを冷蔵庫に戻そうとしたのが、不眠を増長させる結果になってしまった。
冷蔵庫の中には、コールド・ロブスター、サラダ、チキンと、どれもこれも晩飯には出なかったものばかりが入っている。
ほんの一口のつもりで摘んでみりゃ、オツな味がするではないか。
食べるしかないと、ナイフとフォークを持ち出し腰を据えて食べだした。
その後、ベッドに戻ったものの1時間ほどウトウトとしただけで咽が渇き、水を飲みに起き上がる。
後はご想像通り。

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上の文章で「一生懸命」という言葉を2度も使ってしまったが、「一生懸命」とは命がけでやることだそうだ。
命がけというほど大げさなものではないが、変なところで夢中になる私の性格だ。

2019年6月18日 (火)

一蘭ラーメン

友人に同行させてもらい、名古屋へ久々のショッピング。
お昼は、ユニモール8番出口を出てすぐの「ホテルリソル名古屋」地下にある「一蘭ラーメン」へ。
通りに面した狭い入口から地下に入るわけだが、迷路のような階段を何段も下りていく。前もって知っておかなければ、引きかえってしまいそうだ。

この一蘭は食券制で、入口の自販機で食券を購入。
入口から中に足を踏み入れた途端「幸せ〜!」と聞こえたような気がする。
空耳かな?
最近、聴力が衰え始めたのか、周囲が騒がしいと声が聞き取りにくい。
ありもしない音が聞こえるような錯覚に陥る・・・。

何ということはない、店内の貼り紙に言霊〜ことばのおもてなし〜と題され「いらっしゃいませ」の代わりに「幸せ〜!」、「ありがとうございました」「お気をつけて」などの代わりに「幸せを〜!」という言葉を使っていることが書かれている。
貼られた言霊を撮影するのを忘れたので、トリップアドバイザー提供のものを貼り付けておく。名古屋駅店も同じ。


一蘭 四日市三ツ谷店 (トリップアドバイザー提供)

とにかく席に着くと、そこは投票所のように隣席と間仕切りを作って、ラーメンに集中できる空間になっている。
無論、店員の顔を見ることもない。
味の濃さや麺の硬さなど、好みに応じてオーダー用紙に〇をしてから、卓上の呼び出しボタンを押して注文をする。
仕切りがあることから、気にせずに替え玉等のおかわりもできる。替え玉注文時には、チャルメラの音がなり響き懐かしい。

味は、とにかく豚骨スープがおいしかった。
麺の硬さもちょうどいい。
年と共に、濃い味が苦手になってきているから、オーダー用紙にすべて「基本」に〇をしたのが正解だった。

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「一蘭ラーメン」は、かなり歴史のある店で『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、創業が1960年(昭和35年)。
売上高 220億円(2017年12月)
日本経済新聞から引用すると「帝国データバンク福岡支店が5日発表した2017年度の九州・沖縄の外食企業売上高ランキングによると、飲食店「やよい軒」などを展開するプレナスが15年連続で首位となった。豚骨ラーメン店を展開する一蘭が訪日外国人(インバウンド)らを集客し、3位に浮上した。」とある。

初めての「一覧ラーメン」、自分好みのラーメンを注文できるのが嬉しい。
また行ってみたい「一覧ラーメン」だ。

2019年6月17日 (月)

ストロベリームーン

今日は満月。
赤みがかったきれいな満月が見える。
6月の満月をアメリカ圏では「ストロベリームーン」というそうだ。
イチゴの収穫時期に当たることからついた呼び名ということだ。
今日のストロベリームーンをスマホで撮ってみたものの、ぼんやりと白っぽくなって、全然キレイに撮れていない。
肉眼では、月の模様まではっきり見えるのにガッカリ!
なんでもスマホ用の「夜撮カメラ」アプリというのがあるそうで、それを使えばいいようだが・・・。

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カフカ

私がカフカを好きというものの、彼の作品の解釈は難しい。
彼の描く世界は異常に高い精神的意味を持っている。
彼自身の自己意識をめぐる過酷なほどの苦行だろう。
現実生活におけるカフカは、激しい父親コンプレックスだったという。
そのことは、彼が自分自身を書いた『手記』によっても明らかであるし、彼の作品の多くは日記を元にして書かれたものである。
つまり、日記に記された彼の個人的な記録が、作品とほとんど区別のつかないものであったことから鑑みれば、父親の影響による耐えがたい不幸は確実にあったと言える。
作品の多くの特徴は、「自分を消す」ことを念願においている。
それが心理学でいう自己喪失とか自己断罪に繋がるのかもしれない。
カフカの作品の多くを読んでも、今だ解釈に手を焼いている私だ。
難しいゆえに、謎が多いゆえに、カフカ作品にひきつけられるのかもしれない。

Kasa

 

2019年6月16日 (日)

ペット文学

「ペット自慢」とか「私とペット」といったコラムを見かけることが多いが、犬派、猫派、少数派と三分法でペットを理解すればいい。
少数派はハムスターはじめウサギ、亀、熱帯魚・・・蛇とかワニもあるわけで多種多様である。
猫好きよりも犬好きの人の方が多い気もするが、ペットについて書かれたものは、断然猫が多い。
それだけ、うるさい猫好きなのだろう。

小説家もまた、猫好きが多いようで猫文学というカテゴリーがある。
「吾輩は猫である」の夏目漱石をはじめとして、谷崎潤一郎の「猫と庄造と二人のをんな」、「ノラや」の内田百間、「猫のいる日々」の大佛次郎、「猫町」の萩原朔太郎、「猫にかまけて」の町田康、「野良猫ケンさん」の村松友視、私の好きな幻想小説作家笙野頼子までが「猫道」と、「猫文学」に怪作妖作を書いているわけで、一緒に暮らしている人の思いは格別であって、脇から何を言っても始まらぬものだ。
・・・今、それを実感している。
我が家のペットはミニチュアダックスフンドとトイプードルの二匹。
ミニチュアダックスの方は、16年になるから人間の年齢に換算すると80歳。
耳も遠くなり、散歩も嫌がるヨボヨボ状態。
トイプードルの方は6年だから人間に換算すれば40歳のようだ。
共に起居して年月が経つわけだが、どちらの犬も、日に2度の食餌のあと、ゲージから出して自由にさせてやるとシッポをふりふり金魚の糞のようについて来る。
ことさら犬好きの家族は、他人の目も構わずに自分の顔をなめさせている。
犬に顔をなめられるのは私には抵抗があるので、代わりに手をなめさせているが、人間と動物の同居は対象が何であれ、感情の交流なしにはできない。
偏愛極まりない家族を横目で見ながら、その愛すべき飼い犬二匹の陰に、コッソリと異端者わたしめの肖像を書き加えて、怪作妖作の「犬文学」にならないだろうか、と熟考してみるのだが・・・。

Korokoko
 

 

2019年6月15日 (土)

紫陽花

濡れた庭の濡れた紫陽花は風情がある。
昨夜の雨で濡れた今朝の庭に、紫陽花の花弁が色変わりしている。
自己主張の強い花、たとえば百合や薔薇より控えめに咲き、日々ひっそりと色変わりする花、紫陽花。

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額紫陽花の白い花びらが、洗濯したてのようにまぶしい。
花びらの落ちた紫陽花に勘違いされそうだが、額紫陽花は緑色のぎっしり詰まった小花の周りに、別の色をした大きな花びらが、あたかも花の冠のように縁取って咲いている。
それがちょうど額縁を思わせるのだ。

鮮やかな色を、中央からぎっしり詰まらせ咲いている普通の紫陽花の華やかさも良いけれど、額紫陽花の寂しげな風情になんともいえない愛くるしさを感じる。

2019年6月14日 (金)

『毛皮を着たヴィーナス』

本の断捨離後、本棚に残されたうちの1冊。
『毛皮を着たヴィーナス』(マゾッホ/種村季弘訳/河出文庫)。
異性に虐待されることに快感をおぼえる変態性欲「マゾヒズム」の語源となった小説。

ヴィーナス心棒者のゼヴェリ―ンは、男が抱くエロスを追求している。
そこに現れたのがヴィーナスの化身のような未亡人ワンダ。
二人の間で主従関係の契約が結ばれる。
完璧なる支配者であるワンダ、完璧なる服従を味わうゼヴェリ―ン。
それは、まさに女王様と奴隷。
ワンダは言う。
「女なら誰だって、自分の魅力を利用してやろうという本能や欲望を持っているものよ」「女の天性には、あなたが考えている以上に危険が隠されているものです」

小道具としての毛皮も所詮は高級品で、マゾヒズムも基本的には高等遊民のゲームとしても取れるが、もっと深いもの、残酷な要素が潜んでいるのかもしれない。

現在では、SとMも単純には分けられないし、誰にでも大なり小なり、S的要素やM的要素が有ると思う。
それを心の底に眠らせたままにしておく人。
ある程度、追求して行く人。
深く追求して行く人。
様々な人がいるのだと思う。
ワンダの言葉は当たっている・・・、女はそういうところがある。
「女王様の言うことをお聞き!」ピシッ!

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2019年6月13日 (木)

クモの糸

今朝、洗濯物を干していたらクモの糸が顔にかかった。
手で払いのけたつもりでも、切れた糸が髪にまで纏わりついて、なんとなく不快感が残る。
糸の先を見ると、クモが頭を下にして、青空に揺れながら懸命に巣を張っていた。
夏場によく見かけた、腹部に黄色と黒の縞模様のあるジョロウグモではなさそうだ。
今日のクモは、黒い腹をした体調一センチぐらいのもの。
昔から「朝のクモは福の神、夜見るクモは親とても殺せ」といったものだ。
今日は、何かいいことあるかなと思っている。

思い起こしたのが、芥川竜之介の作品『蜘蛛の糸』。
地獄の底にいる陀多という男は、人を殺したり家に火をつけたり、いろいろ悪事を働いた大泥坊だ。
しかし彼は、たった一つだけ良いことをしていた。
道端を這って行く小さな蜘蛛を見つけた時、踏み殺そうとしたが、
「いや、いや、これも小さいながら、命のあるものに違いない。その命を無暗にとると云う事は、いくら何でも可哀そうだ。」
と、その蜘蛛を殺さずに助けてやった。
そのことを思い起こされたお釈迦様が、極楽の美しい銀色のクモの糸を地獄の底に垂らして、助けようとなさった。
しかし、陀多は、自分だけの欲のために、再び地獄の底に沈んだというストーリー。 

今朝のクモの糸は、極楽からの美しい銀色のクモの糸だったのかもしれない。
あの小さな体で、長い時間をかけて懸命に張った巣の一部を、私は素気なく払いのけてしまった。
今思えば、彼の努力をむげにしたようで心が痛む。

Midera

(備忘メモ)

6/11、弟の四十九日の法要と納骨があり、そこで話題になったこと。
当日、姪(弟にとっても姪っ子)が出かけにベランダに出ると、キアゲハがベランダの狭い空間を旋回していたという。
葬式の数日後にもベランダに数匹の白いモンシロチョウが飛び交っていたとか・・・。

それを聞いた弟の嫁も、最近、マンションの庭にアゲハ蝶をよく見かけるとか・・・。
庭付きのマンションに柑橘類(レモン、柚子)を植えているから、特に気にもしていなかったとか・・・。

私も先日、庭のコンクリートのたたきの上に、羽化したばかりのアゲハチョウが飛び立とうと懸命に羽を広げていたのを見た。
普段なら特に気にすることもないが、あの時は何か気になったものだ。
故人の周囲を飛び交う蝶が、「もしかしたら、生まれ変わって逢いに来てくれたのかなぁ」なんって思えてくる。
そういえば、今朝の蜘蛛も弟の魂が乗り移ってきたのかな・・

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この世には科学的に説明できないこと
言葉で説明できない事がある。
故人を思う気持ちは、
色んな形になってきちんと届いている。

2019年6月12日 (水)

おバカさん

人生や社会、文化を短い文章の中に簡潔鋭利な言葉で表現するアフォリズム(警句)。
古くは、明治の文豪斎藤緑雨(三重県出身、批評家・小説家)が得意としていた。
彼の作品『眼前口頭』(日刊新聞「萬朝報」明治31年1月9日~32年3月4日に掲載された『緑雨警語』をまとめたもの)は、その最たるものだと思う。
例えば、こんなのはどうだろう・・・か。
代議士とは何ぞ、男地獄的壯士役者と雖も、猶能く選擧を爭ひ得るものなり。試みに裏町に入りて、議會筆記の行末をたづねんか、截りて四角なるは安帽子の裏なり、貼りて三角なるは南京豆の袋なり、官報の紙質殊に宜し。
(代議士とは何であるか?男娼のような書生芝居の役者であっても選擧に出て、当落を争うことができるものである。試しに裏町に入って、国会議事録を載せた新聞や広報誌の行末を尋ねようか。それは、切って四角にしたのは安い帽子の裏貼りである。三角に貼り合わせれば南京豆の袋となる。国の広報紙は紙質が特に良い。)

總理大臣たらん人と、われとの異なる點を言はんか。肖像の新聞紙の附録となりて、徒らに世に弄ばれざるのみ。
(總理大臣になるような人と、私との相違点を言おうか。肖像画が新聞の附録になって、無駄に世間にもてあそばれないということだけである。)

近年では、平成8年に亡くなっている狐狸庵(遠藤周作)先生も「360のアフォリズム」がある。
これまた、一つ一つが滑稽で感心してしまう。
中には、私の気持ちや私の考えを代弁してくれているような箇所もあり、嬉しくなって「うん、うん」と頷いてしまう。

素直に他人を愛し、素直にどんな人をも信じ、だまされても、
裏切られてもその信頼や愛情の灯を守り続けて行く人間は、今の夜の中ではバカにみえるかもしれぬ。
だが彼はバカではない・・・おバカさんなのだ。
人生に自分のともした小さな光を、いつまでもたやすまいとするおバカさんなのだ。「おバカさん」
(遠藤周作「愛と人生を巡る断層/360のアフォリズム」文化出版局)

Ajisai


(備忘メモ)

6/10
弟の四十九日法要のため、雨の中、関東へ。
品川から東横線で津田沼→新京成で常盤平駅。
姪が車で迎えにくる間、常盤平駅の南口で待つ。
横殴りの雨で、傘をさしていても、気づいたら全身ずぶ濡れ状態。
姪の車で「レストランこはく」へ。
牛ロースステーキを注文した。
昔からの洋食屋さんのようで、混んでいる割には味はイマイチ。
レストランを出て常盤平駅まで送ってもらい、再び新京成で高根公団駅下車。
タクシー乗り場は、。待つ人で超満員。
結局、ずぶ濡れ状態で10分ほど歩き妹宅へ。

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6/11
甥の迎えで三咲霊へ。
(弟は三咲霊園に「生前墓」を建てていた)
霊園内法要施設で49日法要。(AM11:00~)
その後墓所にて納骨式。
引き続き会食。

2019年6月10日 (月)

今日は時の記念日

時の記念日が、『日本書紀』の「漏剋(ろうこく)を新しき臺(うてな)に置く。はじめて候時を打つ」に由来していることを新聞で知った。
漏刻(ろうこく)とは、671年4月25日(太陽暦の6月10日)に天智天皇が日本で初めて設置した水時計のこと。
この水時計は、壷の水がぬれ落ちるにしたがって、壷に立てた矢の目盛りが時を示すという。

時間は、生活するうえで欠かせないとっても大切なものだ。
誰の言葉か忘れたが、「時はそれが何であるか、と問わなければ、誰にでも分かっている。しかし一旦それを問い始めると、たちまち分からなくなる」・・・確かにそうだ。

或癲癇病院の部屋の中で、終日椅子の上に坐り、為すこともなく、毎日時計の指針を凝視している男が居た。おそらく世界中で、最も退屈な、時を持て余して居る人間が此処にいる、と私は思った。ところが反対であり、院長は次のように話してくれた。
この不幸な人は、人生を不断の活動と考えて居るのです。それで一瞬の生も無駄にせず、貴重な時間を浪費すまいと考え、ああして毎日、時計をみつめて居るのです。何か話しかけてご覧なさい。きっと腹立たしげに怒鳴るでしょう。
「黙れ!いま貴重な一秒時が過ぎ去って行く」
(萩原朔太郎『宿命』より

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2019年6月 9日 (日)

オドオド

生まれながらにして怖いもの無しの人は無いだろう。
地震のような物理的怖さは別として、自分自身に自信が無いと心に動揺が起きてオドオドしてしまう。
今の子供達は、先生と友達関係にあるようだが、私が子どもだった頃は、学校の先生は偉い人だという先入観が植え付けられていた。
授業中、予習や復習がしてないときに先生に指されようものなら、本気で怯えていた。
そのくせ好奇心旺盛で目立ちたがり屋の性格は、常に人より先を行かなければ気が済まないのだから始末が悪かった。
そういう過程を積み重ねながら私も進化してきたのだろう。
今では怖いもの知らず。

本の断捨離で、かろうじて残したエッセイ集に阿川佐和子著『オドオドの頃を過ぎても』(新潮社)がある。
阿川佐和子が頼まれてオドオドしながら書いたという作品の解説文や、雑誌などに書いたエッセイをまとめたものだ。
阿川といえば、『テレビタックル』でビートたけしの横に坐って、飾らず気取らず地のままでやっている。
少々の不勉強も、親の七光りでカバーできちゃってるものだ、と苦笑しつつ『テレビタックル』を観ていたことがある。

あれを見ている限りでは彼女の作品に興味も湧かなかったのだが・・・
このオドオドを読み出したら、彼女のオドオド気質に共感するところがあり、ついつい夢中になる。
書かれていることが面白い。
面白いというのは阿川の筆力にもよるのだが、そこに書かれている作家のエピソードが面白いのだ。
例えば、ホテルで「ブルーハワイ」を飲んだ平岩弓枝が、トイレに備え付けてあるブルーレットに気づかず、飲んだカクテルが、そのままお小水として出てしまった、と真っ青になっていた話。
同人誌の中ではトップの存在である『大衆文芸』を出している新鷹会(歴史・時代文学の研究団体)の重鎮、平岩弓枝の一面を見るようで、思わず声を挙げて笑ってしまった。

今は亡き北杜夫や遠藤周作をはじめとする彼女の交友の広さは、父親である阿川弘之を介してのものが多いが、それにしても、彼女よりも年上の 偉い文筆家を相手に、臆する色もなく解説文を書いたり対談に臨むのだから、オドオドも大した心臓だ。

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2019年6月 8日 (土)

イメージを膨らませる

詩や小説は、正確さからだけから生まれたものでない。
もし・・・だったら、そこからどうなるか・・・心を開いて想像すれば、ある一つの仮定から無限にイメージが膨らんでいく。
限りなくファンタスティックな方向へと発展していけば、そこに正確さを欠いてもそれなりに面白みも出てくる。
要は以後の展開によって作品の良し悪しは決まる。

カフカがそうだ。カフカはメタモルフォーゼ(変身)という文学的技法を使っているが、彼はこの作品について『カフカとの対話』のなかで「『変身』は、恐ろしい夢です。恐ろしい表象です」と言っている。
この一言で、彼の着想が夢から来ていることがわかる。
しかし、単純に夢そのものを書いているわけではないことは、次の冒頭の文章でわかる。

「ある朝、グレゴール・ザムザがなにかおだやかならぬ夢からさめたとき、ベッドのなかで自分が1匹のとてつもない虫けらに変身しているのを発見した。」つまり、夢から覚めたグレゴール・ザムザが虫になったという変身譚なのだ。

もし・・・自分が一匹の巨大な虫に変身してしたら・・・どうなるか?

彼の展開させる変身後のリアリティをいかに解釈するかは、さまざまな意見がある。
もしかして、フロイトの『夢判断』を読んでいたのかも知れないが、そういうことを抜きにしても、奇想天外な想像力の中から悲痛な叫び声が聴こえてくる。

Hotdogjpg 
朝食→パン→今日はホットドッグ=hotdogとイメージを膨らませ🎶



2019年6月 7日 (金)

梅雨入り

東海地方も今日6月7日、梅雨入りした。

①「五月雨の降り残してや光堂」
②「五月雨を集めて早し最上川」

上の二句とも、「奥の細道」に出てくるあまりにも有名な芭蕉の句である。
旧暦の五月は今の六月のこと。
つまり、五月雨の降る時期は今の梅雨のこと。

上記二句を現代訳してみると
①あたりは雨で朽ちているが、この金色堂だけは光輝いている。あたかも五月雨がここだけには降らなかったかのように。

②五月雨を集めてきたように流れが早いなぁ、最上川は。

二句とも、梅雨の水量の多さが元にあるが、①では、降り続く長い雨で湿気によって物を腐食させる自然の力と対象に、雨の中に屹立する光堂が芭蕉の心の中にあったのであろう。
② では水嵩の増した景観を流れの速さで豪快にとらえている。

それにしても梅雨はうっとおしい・・・これは、だれしも持っている季節感というものだ。
そうした梅雨のも持っている性質を、芭蕉の場合は賞美しているように見える。


昨日の夕方、庭のコンクリートのたたきの上に、アゲハチョウが飛び立とうと懸命に羽を広げていた。
飛び立つことなく ゆっくり羽ばたいているだけだ。
あの弱々しさから言って、多分、羽化したばかりだろう。

Tilyou_1

 

2019年6月 6日 (木)

手を焼く芝生

以前にも書いたが、芝生の中の雑草を取るのに手を焼いている。
芝生というと、ホテルの洋風庭園やゴルフ場の手入れされたグリーンを思い浮かべる人もいるだろうが、とにかく常に手入れしていないと雑草の方が勝ってしまい、手におえなくなる。
芝生の中の雑草は根を張って、横に広がっていく。
茎だけを引っ張ると、そこだけ切れてしまい抜くのに厄介この上ない。
根の位置を調べ、根っこを持って一気に抜くのがコツだ。
どういうわけか、ここのところ芝生の中に苔が生え、これを取るのがまた困難。
その部分を根こそぎそぎ取れば良いものだが、芝まではがれてしまうのでそれも出来ない。

芝生の中に生えている雑草の種類はシロツメクサ、クローバー、ネコじゃらし、苔、ヒメジョオン、キノコなど・・・正式名は分からないけれど、この辺りでは通称そう呼んでいるものだ。

数年前までは、芝生にも良いと言われたシマジンという除草剤を使っていたが、土から水分を吸収してしまうのか、土がカチカチになってしまい、結果、根が弱って芝の勢いが悪い。
芝生には影響なく雑草だけを取り除くことのできる良い除草剤がないものか・・・。

Sibafu

2019年6月 5日 (水)

またまた『恋文』より短信

またまた『恋文』(アントニア・フレイザー編/吉原幸子訳/三笠書房)より。

自分のありったけの気持ちを伝えようと思うと、ついつい長文になるのがラブレターだが、短文でも気持を伝える技もあるわけで、フランスのルイ・フィリップ王の第三子ジョアンヴィルと人気女優ラシェル・フェリクスの間で交わされたカードが粋だ。
「どこで?― 何時?― 幾ら?」とジョアンヴィル王子の送ったカードに対して、「お邸で― 今晩― 無料」とすかさず返すラシェル。

ピアニストであり、作曲家でもあったリストは、人妻のマリー・ダグー(筆名、ダニエル・スターン)と駆け落ちをするが、マリー・ダグーからリストに宛てた手紙に対する彼の返事がいい。
「あなたの顔を見るまでは決して外出しません。部屋は、チゴーニュ・ホテルの一階、202号室です。――玄関から右の方へ進んでください。あなたのF」

実に簡潔でいて、目的にそった要領を得ている。

Haniku

2019年6月 4日 (火)

再び『恋文』より

 『恋文』(アントニア・フレイザー編/吉原幸子訳/三笠書房)の続き。

時に矛盾を伴うのも、これまたラブレターならではのこと。
カフカは恋人のフェリス・バウエルと初めて出会った直後から、彼女へ何千通もの手紙を送っている。
彼の優柔不断、決断力のなさは手紙にもそれが伺われる。
「もう、文通をよそうよ」と書いたその口の下から、「返事が遅い」と彼女を攻め立てる。
この矛盾も、激しく燃える心の乱れを素直に表しているものだと思えば微笑ましい。

フレデリック・ショパンは、一時彼の恋人であったデルフィーネ・ポトッカへ「僕は作品と労力をむなしく浪費しました!!」と、恋のために仕事が出来ないと書いておきながら、その追伸で「追伸 昨日はとうとう何もせずに過ごし、この手紙も投函せずじまいだったので、一言付け加えます。たった今、”プレリュード”を完成しました」と、感動的な矛盾である。

物慣れた口調で甘美なことばかりを並び立てるのではなく、そのとき時の心のままを表現すると矛盾も然りで、カフカやショパンの率直さに頷ける。

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2019年6月 3日 (月)

『恋文』

先日も書いたが、本の断捨離後の本棚には手元に置いておきたい本ばかりになった。
詩人の吉原幸子(1932年6月28日 ~ 2002年11月28日)が訳した『恋文』(アントニア・フレイザー編/吉原幸子訳/三笠書房)もその一つ。

その中から「無名自殺者のノート」を引用するとこうだ。

「死にたくて死ぬわけじゃない。世間じゃ誰でも知っているように、愛なんってただ一番面白いスポーツなんだろうさ。間違っちゃいない、連中もきっとそう言ってくれるだろう。パーマーズ・グリーンのあの・・・野郎が、ぼくの女房をくすねやがったんだ。世界じゅうで一番いい女――世界じゅうでぼくが初めて愛した女、ぼくの女房を盗みやがったんだ。」

結婚によって結ばれた間柄でありながら、一方の不倫で破滅をもたらした場合、感情を抑えられないのが自然の流れである。
裏切られても、なお愛を貫き通すためには自殺なのか・・・。

熱烈な感情を抱きながらの別離もあるわけで、永訣の手紙もまたラブレターなのだ。

Koibumi

Loveletter

 

 

 

2019年6月 2日 (日)

iPadスタンド

不眠症ではないし、どちらかと言うと眠れて仕方がないタイプで、事実よく寝る。それでも眠れなくって困る時がある。

眠れなくなるような理由を探しても、具体的には見当たらない。
ただ、神経が過敏になっているのか、シーツのシワさえ気になってくる。
起きあがり、シーツの掛けなおし。

ふたたびベッドにもぐりこんで眠りにつこうとするのだが、無理に眠ろうとするから余計に眠れない。
サイドテーブルに手を伸ばし、寝床読書ならぬ寝床iPad。

過敏な神経は、開いたWEBページの疑問箇所で、前に進むことを許さない。
「そういえば、これについての関連があの本に載っているはずだ・・・」と、思いついた途端に起き上がり、本棚を探し回る。
探し当てた本を持ち込み、ベッドに入る。

目の疲れを休めるために明かりを消し、目を閉じてしばしの休息と思いきゃ、今度は喉の渇きで階下へ行って冷茶を一杯。
喉の潤しついでに、心の乾燥を潤そうと加湿器のスイッチオン。

これで眠むるぞ!と、柵を飛び越えるヒツジの数を数えてみる。
「ヒツジが一匹、ヒツジが二匹、ヒツジが三匹・・・」
幾つまで数えたのか記憶にない。
気が付いたのは、「もしもし・・・」という自分の発する声。
夢の中で携帯電話のアンテナが抜け落ちた。

Top 

↑ サイドテーブルの上に100均で買ったスノコを置き、スノコの隙間にiPadを立てかけiPadスタンドにしている。

2019年6月 1日 (土)

情報から

昨日(5月31日 )、ビックニュースが入った。
『北朝鮮による拉致被害者家族連絡会の元事務局長、蓮池透氏(64)は31日、夏の参院選を念頭に、山本太郎参院議員が立ち上げた政治団体「れいわ新選組」から立候補すると表明した。』(朝新聞デジタル)

メディアから殆ど触れられなかった「れいわ新選組」も、遂に朝日が取り上げた。
これに続き大手新聞も報道し始めた。
蓮池透さんと言えば、初めから安倍さんが拉致被害者を利用していると見抜いてた。
その鋭い目で、臆さず安倍政権の批判をする勇気ある人だ。
さすが山本太郎の目のつけどこが違う。

 
多くの国民が政治に無関心ではいられなくなる、そんな「れいわ新選組」に国民の力が結集されたら、日本は変われると思う。

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