2011年4月23日24日の気仙沼

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    気仙沼市唐桑町にの甥一家が東日本大震災で津波の被害に遭遇。お見舞いに駆け付けた時の撮影。

乱読

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2019年5月26日 (日)

訓練可能

朝日カルチャーセンターの「文章講座」に通っていたころの話。
小説やエッセイ、評論と言ったジャンルに制約されない講座だったから、ある時はエッセイ、ある時は評論(そんな高尚なものでなく感想文)そしてある時は小説と、自由に書いていた。
性格として型にはまるのが嫌いで、既存の枠にはまらない自由な発想で文章を展開していた。

だから、私の書く文章は他人が見れば悪文の部類か、醜文の部類に入るだろう。
どちらにしても響きが悪いが、私は醜文を痴愚表現の横行と解釈しているから、醜文だけは書きたくない。
そう思うと、やっぱり肩に力が入る。
自分の文章を悪文と認識した上で、「個性的で魅力がある」と暗示をかけての姿勢も必要なのだろう。

吉行エイスケは、『売恥醜文』という雑誌を創刊したことがあるが、息子の吉行淳之介が「父の小説を終わりまで読んだものは、一作もない」と言ったことからしても、そういう類のものだったのかも知れない。
 

美しい手紙を書く友人がいる。
パソコンをしない人だから自筆で書いてくるが、規制の美しさではない。
それは、私の良心に触れてくるものである。
読んでいて、その友人の生活の感情を感じさせられるばかりでなく、受け取った私の生活の感情を見抜かれているようで、少しばかり恐い気がしないでもない。
だが、それだけにこちらを理解してくれているのだろう。
彼女に見習って、ペンで心のこもった美しい返事をだそうと思うのだが、思えば思うほどに肩に力が入って、長時間を費やすことがある。
やっと書き上げても読み直すと誤字脱字。
さらには句読点のふり方が気になり、書いては読み返し、書いては読み返しのくり返し。
もう、やめた!
で、結局はパソコンで打ち込みの手紙になってしまう。

手紙文は、どうしても対人優先になるから難しい。
その点、文芸文は悪文でも個性的なものであれば、それなりに罷り通るから気楽といえば気楽だ。
いずれも訓練可能だから、ただ書くのみにある。

Hokudai-20190327-214503


(備忘的メモ)

◎昨夜、自分のブログをiPadで見ていて、フォントサイズが小さすぎると感じたので、iPad上で11ptから12ptに変更した。
ところが、パソコン(画面サイズ1680×1050px)の場合、フォント12ptで記事を書くと見栄えが悪い。
元に戻してフォントは11ptにする。

◎マッサージの日(11:30~12:30)

 

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