2011年4月23日24日の気仙沼

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    気仙沼市唐桑町にの甥一家が東日本大震災で津波の被害に遭遇。お見舞いに駆け付けた時の撮影。

乱読

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2019年3月31日 (日)

芭蕉俳諧の精神

以前、オーストラリアの人に「わび・さび」について聞かれたことがある。
外国の人にとっては、「わび・さび」が、日本の文化の代表的なものに思われているようだが、その違いについて聞かれたのだ。
私は、「わび・さび」は二つ揃って1組、つまりペアになっているものだ、と思い込んでいたから返答に窮した。
そう言えば千利休が完成した茶の湯も「わび茶」と言うが、「さび茶」とは言わないし違いがあるのだろうか・・・。
とにかく調べまくった。
あるとき、芭蕉俳諧の根本精神が「わび・さび」にあることに行き当たり、松尾芭蕉の俳句を例に説明を試みたものの、日常生活上の侘しさも寂しさも、常に同時進行でついて回るものでセットされたものだとしか説明出来なかった。
・・・それが未だ気にかかっているのだ。
因みに『常用国語便覧』(浜島書店)では、次のように区別されている。

 わび
自然と一体となった枯淡・閑寂の境地.松風・俳諧や茶道などの中心となった理念。

 さび

「寂しさ」の語から出ているが、単なる寂しさではない。
静寂の中にひたり、それを超えて、閑雅・枯淡にまで洗練していく芸術上の美をいう。
作者が対象をとらえる心や体験により得られる美的感情により達しうる境地である。
そこで必ずしも閑寂の句に限らず、華麗・濃艶を詠んでも「さび」は表現されるのである。

芭蕉の俳句を探求していると、ある掲示板に「古池や 蛙とびこむ 水の音」を取り上げて、池に飛び込んだ蛙は何匹だったか、という問いかけがあった。
それに対して1匹、2匹、数匹と様々なレスが書き込まれていた。
私たちが学校で習ったのは確か1匹で、あの句こそ「わび・さび」の心を歌った代表句だったのでは・・・。
数匹と答えた中に、その理由として小泉八雲の英訳を引き合いに出して、八雲は蛙(frog)をfrogsと複数に英訳したと言うのがあった。
小泉八雲と言えば、元の名前はラフカデリオ・ハーン。
1890年に来日、その後日本女性と結婚し、日本に帰化した。
いくら日本贔屓と言っても、彼の体に染み付いた感覚は純粋な日本人が理解する「わび・さび」の心とはかけ離れたものがあったと思う。
frogsと複数に感じ取るのはその静けさよりも、たくさんの蛙たちが一斉に飛び込む賑やかな音を読み取ったのかも知れない。
しかし、芭蕉俳諧の根本精神から言えば、一匹の小さな蛙が飛び込む・・・聞こえるか聞こえないかの微かな水の音で、周りの静けさが一層引き立たなければならない。
複数であっては静寂を表現することができないのだ。

Sawataririver

 

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