2011年4月23日24日の気仙沼

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    気仙沼市唐桑町にの甥一家が東日本大震災で津波の被害に遭遇。お見舞いに駆け付けた時の撮影。

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2019年3月16日 (土)

赤貧洗うが如し

「春には遠い三月の寒さに/三周忌をを迎えて僕は/水仙や梅の一枝を手向けて/
追憶に耽り彼女を慰めようと思ふ」


妻の命日にこのように歌って、三日後に死んでいった白樺派の詩人千家元麿。
その死は赤貧の中での死だ。
父親は男爵という貴族階級然とした生活を捨て、家の女中だった女性と結婚した。
無論、生活はどん底の貧窮暮らし。
それでも意に介さず、無邪気に感動のままを歌い上げていた。
一昨日(3月14日)は、その千家元麿の死んだ日だ。(1888年6月8日~1948年3月14日)
単純で素直な散文的な作風で「自分は見た」「炎上」などの詩集がある。
千家元麿の「自分は見た」は、青空文庫で読める。

『飯』
君は知つてゐるか
全力で働いて頭の疲れたあとで飯を食ふ喜びを
赤ん坊が乳を呑む時、涙ぐむやうに
冷たい飯を頬張ると
餘りのうまさに自ら笑ひが頬を崩し
眼に涙が浮ぶのを知つてゐるか

うまいものを食ふ喜びを知つてゐるか、
全身で働いたあとで飯を食ふ喜び
自分は心から感謝する。

 
『蛇』 
蛇が死んでいる
むごたらしく殺されて
道端に捨てられている
死体のそばには
石ころや棒切れなぞ兇器が散らかっている
王冠をいただいた神秘的な頭は砕かれ
華奢で高貴な青白い首には
縄が結わえてある美しく生々しい蛇は
今日は灰色に変わっている


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蛇という不気味な存在、普通は嫌がられる種類の生き物だ。
それが、あまりにも露骨に横たわっている。
蛇の頭に王冠をすえ、長い首を高貴なものと見立てたうえでの死体は、無のなにものでもない。
その無に対する恐怖が深々と迫ってくる中で 、痛め付けられて殺された死に対して
人間に対して思うときと同様な、憐みの心をうたっている。
これが、当たり前の情愛というものだ。

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