2011年4月23日24日の気仙沼

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    気仙沼市唐桑町にの甥一家が東日本大震災で津波の被害に遭遇。お見舞いに駆け付けた時の撮影。

乱読

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2019年3月25日 (月)

義仲寺の芭蕉

大津市内の旧東海道沿いにある寺院・義仲寺に木曽義仲(源義仲)の墓がある。
そこに肩を並べるように芭蕉の墓がある。
芭蕉は1694年10月12日大阪南御堂前の花屋仁右衛門の裏座敷で51歳で生涯を閉じているが、死を前にして、自分の遺骸を義仲寺の義仲の塚の隣に埋葬するように遺言してた。
遺骸は、その日のうちに弟子たちの手によっって義仲寺に運ばれたという。
芭蕉は、旅の途中しばしば義仲寺に逗留していたというが、義仲は、芭蕉よりおよそ500年前の人であり、芭蕉にとっては歴史上の武将であるにすぎない。
にもかかわらず、その人の横に永遠にいたいという芭蕉の願いは尋常ではない。
義仲は木曽の地から朝日のごとく現れ、あの栄華を誇った平家を京から追放した源氏の武将だが、その傍若無人の振舞ゆえ後白河法皇に背かれ、最後は源氏に討たれ、琵琶湖のほとりで討ち死にした。
彼を滅ぼし、短命に終わらせたのは京都と言われている。
彼は木曽の田舎出で「みやこ」の作法を弁えなかった故に「えびす」(特に無骨で粗野な東国武士をあざけって言った)と愚弄され身を滅ぼしていった。
俳聖芭蕉は、「えびす」の無念を理解し、思いを馳せたのか・・・。
朝日の勢いで輝いていたとはいえ、その後の悲劇的な最期が芭蕉の美学にかなったものだったのか・・・。
芭蕉が木曽義仲を題材に詠んだ句では次のようなものがある。
 
「義仲の寝覚めの山か月悲し」(「荊口句帖」奥の細道旅中、敦賀での名月の晩)
源平争乱期、木曽義仲の城が福井県今庄町の燧が山にあったと言われている。燧が城を見ていると、あの木曽義仲もこの景色を見ていたかと思うと感慨もひとしおだったであろう。

「木曽の情雪や生えぬく春の草」(「芭蕉庵小文庫」義仲寺の草庵にて)
義仲の墓をテーマに詠んだものらしいが、厳寒に耐えながら春の草が芽を出している。それは怒涛の中で人生を終えた武将木曽義仲の生きざまを、しみじみと感慨を持って詠ったのであろう。

三井寺観音堂展望台から見渡す琵琶湖 2010/8/23撮影

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