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2007年3月13日 (火)

警句

凝縮した短い文章の中に、人生や社会、文化を鋭利な言葉で表現している田辺聖子のアフォリズムのことを書いたばかりだ。それに刺激されて、私もアフォリズムを放ってみたい、と頭を捻ってみるが、どうしてもダメだ。社会や時代に興味がないのではなく、状況を把握して表わすのに皮肉を込めた辛口の言葉が出てこない。季節は春だし、身内に祝い事が多いのでほんわかモード。体中が春めいているから、世情への批判精神が湧いてこないといったところかも。

古くに斎藤緑雨(三重県出身、批評家・小説家)が、アフォリズムを得意としていた。
彼の作品『緑雨警語』は、その最たるものだと思う。
例えば、こんなふうだ。

「眼前口頭」より (ウェブサイト「言葉 言葉 言葉」)
○われは今の代議士の、必ずや
衆人が望に副へる者なるべきを確信せんと欲す。衆人曰く、金がほしい。故に代議士は曰く、金がほしい。
○一日も政治なかる可らず、茲に於てか月給を奪ひ合へり。一日も政黨なかる可らず、爰に於てか看板を奪ひ合へり。車宿の親方の常に出入場を爭ふの故を以て、内閣大臣の偶々出入場を爭ふを不可とするの理を我は發見する能はず。車宿の親方の果敢なきが故にあさましく、内閣大臣の然らざるが故にあさましからずといふの理をも發見する能はず。
○それが何うした。唯この一句に、大方の議論は果てぬべきものなり。政治といはず文學といはず。
○上流に比すれば樂多かるべし、
比すれば樂多かるべし、されども下流に比すれば苦多かるべし。社會の勢力は總て中流の有なること、今更にもあらざる可き歟。維持するに於て、壞亂するに於て。
○政治は人を亡し、文學は国を亡す。國のために政治をいひ、人のために文學をいふ。誤らずんば幸ひ也。

○眞實、摯實、堅實、確實、これらは或場合に於ける活字の作用に過ぎず。即ち今の精神界を支配するもの、勢力を以ていはゞ活字なり。

「青眼白頭」より  (青空文庫
○天下後世をいかにせばやなど
、何彼《なにか》につけて呼ぶ人あるを見たる時、こは自己をいかにせばやの意なるべしと、われは思へり。
○識者といふものあり、都合のいゝ時呼出されず、わるい時呼出さる。割に合はぬこと、後世に似たり。示教を仰ぐの、乞ふのといふ奴に限りて、いで其《その》識者といふものゝ真《まこと》に出現すとも、一向言ふ事をきかぬは受合《うけあひ》也。
○按ずるに筆は一本也、箸は二本也。衆寡《しうくわ》敵せずと知るべし。

  (注)衆寡:多数と少数。筆を夢とか希望とし、箸を生活とみれば良いのでは

彼のアフォリズムは文学界ばかりではなく、芸能界や政界からも恐れられていたということだ。旧仮名遣いで読みにくいが、現代にも当てはまる辛らつな批判精神が伝わってくる。37歳という若さでこの世を去ったのが惜しい。2004年が緑雨の生誕100年当たる。

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