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2007年3月19日 (月)

「両洋の眼展」

「両洋の眼展」に行ってきた。両洋とは東洋、西洋を併せ持つ意味があるわけで、日本画、洋画の枠を越えた新進作家の作品展。今回で18回目。新進気鋭といわれるだけあって、斬新な作品も多い。一つ残念なことは、以前にも書いたが、盗作ではないかと話題になった和田義彦さんの出品がなかったことだ。2005年の「両洋の眼展」では河北倫明賞を受賞されているし、本来ならVIP待遇の出品であるはず。

以下、私の独断と偏見の素人感想です。

・山口啓介さんの「世界模型 さようなら冥王星」は、タイムリーな話題を素材にしていた。しかし、どう首を傾げても、私にはイマジネーションが湧いてこなかった。

・住所不定、国籍不明、写真にも写りにくいステルス野郎を描いたという渡辺恂三さんの「四角四面と三角野郎」は、写実的な作品に左右を囲まれていたせいか、強烈な印象を受けた。レモンイエロー調の濃淡とグレイの線だけの単調なものだが、無駄のない空間に制作までのプロセスが十分に伺える。

・「男と女と」と題する栗原一郎さんの作品は、男女の裸体を立ったままで絡ませたもの。男性の体にしがみつく女性だが、男性の下半身は描かれていない。これは省略することによって、明確なイメージを浮かび上がらせているのだろうか、あるいは空間とのバランスなのか・・・。線が中心の白黒の濃淡の作品で木炭デッサンを思わせるが、もちろん油彩だ。いずれにしても直感的なイメージはリアルで、二人の男女の息吹が伝わってくる。

昔、私は石膏デッサンを習っていたが、目の前にある石膏を精巧に描いたとしても、どうにもやりきれなくなることが多かった。あれは美大受験のための石膏デッサンだったし、自分の創造のイメージが自由に表現できなかったことにあるのだろう。今なら、対象にとらわれず、細部にこだわることなく、自由に創造の翼を広げられる。もう一度、絵をやってみようかな・・・。なんって、気の多いことを考えてしまっている。


Img_7975 展覧会のついでに、いま名古屋で話題のミッドランドスクエアに寄った。1階はブランドのストリート。2階のファッションフロアに行っても高級品ばかりで、私には縁遠いエリアだ。果たして名古屋に馴染むのかな?

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2007年3月14日 (水)

あと15年でした

久しぶりに友人のブログを覗いた。自分が死ぬまでのカウントダウンをしてくれるサイトが紹介されていたので、同じお題でトラックバックです。『The Death Clock』 、と何とも物騒な時計ですが、自分の死ぬ時期をあらかじめ頭に入れておくのも損はないというもの。
英語サイトだが、生年月日、性別を入力し、modeはNormalでよい。BMIは、散語抄のTOPにあるダイエットの鉄人で計算してください。

さて私ですが、こんな結果が出た。

Your Personal Day of Death is...(死ぬ日)
Friday, March 25, 2022 

Seconds left to live...(残り秒数)
474,218,963(3/14 21:31分現在)

私は79歳までの寿命。まあ、年齢的にいえば、ほどほどなのだろうが、それにしてもあと15年なんって悲しすぎだ。

最近、夜中に目覚めて、いろんなことを考える。自分はいつまで生きれるのか、どんな死に方をするのか。
順序からすると、夫の方が先に逝くわけだ。
そうなると、一人暮らしになった私はどうなるのだろうか。
第一に、家の経済状態がわからない。
生命保険はどうなっているのだろうか?
銀行預金は?借金は?
株って、どのように売買するのだろうか?
大枠では知っていても、経済的なことについて私はノータッチできたから、後々のことが気になって明け方まで、悶々と考え続ける。
金庫や机のひきだしのなかを探せば分かるのだが・・・。

まあ、60代と70代の夫婦二人暮らしでは、新たな夢の構築よりも死ぬときのことを考えてしまうわけだ。

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2007年3月13日 (火)

警句

凝縮した短い文章の中に、人生や社会、文化を鋭利な言葉で表現している田辺聖子のアフォリズムのことを書いたばかりだ。それに刺激されて、私もアフォリズムを放ってみたい、と頭を捻ってみるが、どうしてもダメだ。社会や時代に興味がないのではなく、状況を把握して表わすのに皮肉を込めた辛口の言葉が出てこない。季節は春だし、身内に祝い事が多いのでほんわかモード。体中が春めいているから、世情への批判精神が湧いてこないといったところかも。

古くに斎藤緑雨(三重県出身、批評家・小説家)が、アフォリズムを得意としていた。
彼の作品『緑雨警語』は、その最たるものだと思う。
例えば、こんなふうだ。

「眼前口頭」より (ウェブサイト「言葉 言葉 言葉」)
○われは今の代議士の、必ずや
衆人が望に副へる者なるべきを確信せんと欲す。衆人曰く、金がほしい。故に代議士は曰く、金がほしい。
○一日も政治なかる可らず、茲に於てか月給を奪ひ合へり。一日も政黨なかる可らず、爰に於てか看板を奪ひ合へり。車宿の親方の常に出入場を爭ふの故を以て、内閣大臣の偶々出入場を爭ふを不可とするの理を我は發見する能はず。車宿の親方の果敢なきが故にあさましく、内閣大臣の然らざるが故にあさましからずといふの理をも發見する能はず。
○それが何うした。唯この一句に、大方の議論は果てぬべきものなり。政治といはず文學といはず。
○上流に比すれば樂多かるべし、
比すれば樂多かるべし、されども下流に比すれば苦多かるべし。社會の勢力は總て中流の有なること、今更にもあらざる可き歟。維持するに於て、壞亂するに於て。
○政治は人を亡し、文學は国を亡す。國のために政治をいひ、人のために文學をいふ。誤らずんば幸ひ也。

○眞實、摯實、堅實、確實、これらは或場合に於ける活字の作用に過ぎず。即ち今の精神界を支配するもの、勢力を以ていはゞ活字なり。

「青眼白頭」より  (青空文庫
○天下後世をいかにせばやなど
、何彼《なにか》につけて呼ぶ人あるを見たる時、こは自己をいかにせばやの意なるべしと、われは思へり。
○識者といふものあり、都合のいゝ時呼出されず、わるい時呼出さる。割に合はぬこと、後世に似たり。示教を仰ぐの、乞ふのといふ奴に限りて、いで其《その》識者といふものゝ真《まこと》に出現すとも、一向言ふ事をきかぬは受合《うけあひ》也。
○按ずるに筆は一本也、箸は二本也。衆寡《しうくわ》敵せずと知るべし。

  (注)衆寡:多数と少数。筆を夢とか希望とし、箸を生活とみれば良いのでは

彼のアフォリズムは文学界ばかりではなく、芸能界や政界からも恐れられていたということだ。旧仮名遣いで読みにくいが、現代にも当てはまる辛らつな批判精神が伝わってくる。37歳という若さでこの世を去ったのが惜しい。2004年が緑雨の生誕100年当たる。

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2007年3月 8日 (木)

遅まきファン

松坂屋名古屋本店、本館7階大催事場での『田辺聖子の世界展』(2月28日~3月5日)、すでに終ったが、 会期終了の前日に行ってきた。ちょうどサイン会の時間帯でもあったので、会場は身動き出きないほどに人でごった返していた。中年の女性たちの黄色い声や拍手で出てきたのが、小柄な粋の良いおばあちゃん、いや、童女のようなと表現した方が良い。それが田辺聖子だった。ファンの多いのには驚いた。これもNHKテレビ小説「芋たこなんきん」の影響か。

以前、名古屋の朝日カルチャーセンター小説教室に通っていたとき、講師の先生に「田辺聖子を模倣せよ」と言われ、彼女の本を数冊読んでみた。
ところが、関西弁の喋り捲りの家族ものというのが、どうも馴染めなかったのを記憶している。斜め読みだったのだろう。すでにタイトルも忘れているのだから。
今回展示された田辺ワールドを見て、自分の見識の狭さに改めて考え直させられた。
エネルギーの要る評伝や古典翻訳が彼女のライフワークとなっているようだ。それについて、私は全く知らなかった。1、2冊の小説の、それも上っ面だけをみて判断基準にしていたのが、今更ながら恥ずかしい。

Tanabe 混雑した会場では、ゆっくりメモも取れなかったので目録を買ってきた。彼女のアフォリズムが面白い。例えばこうだ。

トシなんか、個人的に伸び縮みするもんやさかい、自分の思うトシをてんでに申告しといたらよい。『週末の鬱金香(チューリップ)』

イモに交わればイモになる。『人生の甘美なしたたり』

六十を過ぎたら、自分が神様じゃ。『人生の甘美なしたたり』

この日本にはヤングと老人ばかりのようだ。オトナはどこへいってるのだろう?『人生の甘美なしたたり』

人間が人間のプロになれる頃には、八十にはなっているだろう。『人生はだましだまし』

ちょっと苦笑いしたくなる箴言だが、心に響く言葉だ。
遅まきながらファンになってしまった。

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2007年3月 6日 (火)

梅花の宴

Baika_2 実家の庭には白梅の花が咲き誇っていた。
春らしい春の訪れを感じる花の代表格は、やはり梅、桜、桃。
梅が咲き、桜が咲いて、桃と続く。

                   

ひな祭りを「桃の節句」と呼ぶのは、旧暦の33日のころが桃の花が盛んなことからきたようだ。今は新暦の33日に定着してしまっているから、桃の花には少し早い。
ところが、桃花よりもその実の花から作った杏仁湯を飲んだ中国の風習が渡来したからだ、という説がある。
白酒が供えられるのも、そこからきているのか・・・。真偽のほどは定かではない。味醂仕立ての白酒がわりに、濁酒を買って大人の女の節句気分に浸っている間にひな祭りも終わってしまった。

松坂屋本店美術館で開催されている、平成「梅花の宴」展に行ってきた。なんともしゃれた呼び名の展覧会だ。これは『万葉集』の「梅花歌32首」にみられるように、大宰府の大伴旅人の屋敷に集った32人がそれぞれ一句、梅を詠った観梅の会「梅花の宴」に倣ったネーミングという。近代から現代までの代表的日本画家の梅をテーマにした作品を一堂に展示したもので、まさに圧巻だ。

私の心に特に残った作品は、ほとんど墨一色の主体で、わずかに淡い彩色をほどこした横山大観の「夜梅」と「暗香浮動」だ。夜の梅が、こんなにも美しく香り高いものだということに初めて気付いた。

それぞれの作品の背景の中に、それぞれの梅の形があり、それぞれの梅の香りがしてくる。作者思い思いの梅の花に寄せる想いというものが、私に理解できないにしてもだ。

万葉の時代から1300年余を経ても、人々の梅を愛でる心は変わらない。

2007年 2月21日(水)~ 3月 6日(火)ということで、今日で終了。

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