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2006年5月22日 (月)

風呂敷

長かった連休で心がゆるみかけているところにもってココログの不調で更新が滞っている。と、まあ 言訳はいろいろあるが、この間にプール通いを始めた。体重のことなど気にしたこともなかったのが、この2年間で8キロも増加してしまい、さすがに苦になりだしたわけだ。運動が苦手な上に出不精の私が出かけて行って泳いでくるのだから、そんな日にはNETに接続しても文章を書く気も起きないし、ただただ、意味もなくインターネット上をあちこちと動き回っている。こういう無為も貴重だ、と妙な自己弁護をしているが結果は前回の更新から20日以上の日が流れてしまっている。

Img_5339_1 先日、世界大風呂敷展(名古屋市博物館)に行ってきた。大風呂敷と言っても、この風呂敷はものを包む方の風呂敷のこと。ご贈答品を持参する場合に風呂敷に包んで行くというのが普通だった私の時代があった。それがいつの間にやら紙袋に変わってしまった。もっと時を遡れば、カバンではなく風呂敷をさげるのが庶民の風俗だった時代もある。今の時代に古い風呂敷をゆるゆるにさげて歩くのは正直みっともない。そうは言っても、まとめにくいものをまとめて運ぶには、これほど便利なものはない。使い方次第で今でも重宝するものだ。その上、紙袋のように簡単に破れることもないし、ゴミの削減になる。
風呂敷は日本独自のもの、と思っていた今までの私の認識は誤っていたわけで、世界の中の布の文化を持つ国に於いては、風呂敷の役目を果たす布が必ず存在しているということだ。ただ、物を包むためだけに使用する四角の布を風呂敷文化として発展させたのは日本と韓国のほかは少ない。今回の展覧会では、いわゆる日本でいうところの物を包む風呂敷といわれるものに限定されずに、ハンカチやテーブルクロス、壁掛け、肩掛け、腰布を含めた物を覆う一枚の平面的な布であれば、それも風呂敷ということで世界の貴重な風呂敷が展示され、そこから民族文化が紹介されていた。
一つの物が布で包まれることによって包む前とは変わってくる。例えば日本でも家具に家紋を染め抜いた祝い布がかけられると嫁入り道具に変身する。また、人が死んだときに遺体の顔の部分に白い布を被せるが、死者を清浄な肉体にして、無事に極楽へ行ってほしいとの祈りを込める。インドネシアでは人が亡くなると香典のようにして大切な布を贈り、遺体はその布で丁寧に包まれる。つまり、大切なものを包んだり覆い被せ保護することによって祝いの心や祈りの心を布に託すのである。そういう意味から言えば、ミイラ包みは風呂敷の最も古い機能を果たしているとも言える。
そうした儀式的な使われ方とは別に、実用的な使い方としてパネルで紹介されていたほんの一部をあげてみるとこうだ。
西アジアや中央アジアでは食卓の代わりをなすのが一枚の布。床の上にじかに座って食事をする生活様式から来るものだろう。中央アメリカや南アジアでは風呂敷にものを包んでいとも軽々しく頭上に乗せて運んでいる。それだけではなく一枚の布を肩に掛けて、その中に乳児を包みいれて運んでいるのだから逞しい。
ヨーロッパは鞄の文化圏で風呂敷とは縁がなさそうに思えるが、ドイツの大工職人は風呂敷に大工道具を入れて修行に出るのが決まりであったようだ。

体験コーナーで風呂敷の包み方を教えてもらったが、アイディア次第でいか様にも美しい包み方が出来る。環境問題を考えれば、いまこそ風呂敷を見直す時期だと思う。

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2006年5月 1日 (月)

古いもの

MAY,MAY――5月、目にまぶしいほどの新緑。その隙間から小鳥たちがリズミカルに歌っている。飼い犬のコロが一緒に遊ぼう、と私の周りで大はしゃぎで飛び回っている。庭で草取りをしていたが、強い日差しが服をとおり、肌に射してきた。

土、日と孫がやってきた。「庭でバーべキューをして、夜は蚊帳を吊って寝袋で寝たい」とリクエストした。去年の夏、真っ青な海のような蚊帳の中で、袋の中に入って板の間の上に身を置いた感触が余程の感動として残っているのだろう。
バーべキューはともかくとして、蚊帳と寝袋を出すのは厄介なことだ。第一、どこにしまったかも記憶にないのだから。
「どこにあるか分からないから、また今度のときにね」と言ってしまうのは簡単だけど、折角の子供の豊かな感性を断ち切ってしまうことになる。物で積み上げられた押入れ中を探し回る覚悟をしたが、これが案外簡単に出てきた。
蚊帳なんって40年も前のもの。私が結婚したときの花嫁道具の一つだ。ほとんど使っていないので、多少の色あせはあるものの、いい状態に保たれている。寝袋は息子のボーイスカウト時代のもの。
何もかも古い。使わないものばかりだからゴミとして処分しよう、と何度思ったことか。次から次へと便利なもの、快適なものが作り出され、古いものはさっさと捨てた方がどんなに快適か・・・。それが分かっていても、捨てきることの出来ない愛着のあるものもあるわけで、それを孫たちが喜んで使ってくれるのだから、受け継がれていくものの歴史を感じる。

私が初めてホームページ「オクターブ」を立ち上げたのが2000年の5月1日、今日で7年目に入ることになる。努力や根気、忍耐とはまるで無縁の私がよくもここまで続けたものだ、と感慨ふかいものがある。当時、個人のホームページ普及率は今ほど高くはなかったので、チャットやメッセンジャーで大いに宣伝した思い出がある。それが一昨年辺りからのブログの大ブレイクで、更新通知pingを送るだけでたくさんの人に見てもらえるようになり、私もそれに便乗して「ココログ」で犬専用のブログを立ち上げた。サービスには限界があるものの、これが意外に簡単で更新しやすい。私にとっては、更新に手間のかからないブログが魅力に見えたわけだ。確かに、当初は日々の犬の話題だけで筆が進んだ。
そんなわけで、日記形式で書いていた「日々散語」を今年の2月からブログに切り替えた。ところが、平凡きまわりない私の人生では知識不足は否めないわけで、きわめてノーマルな文章しか書けない。他人のブログを読みながら彼らの言葉の渦に圧倒された。たくさん読んでいくうちに自分の興味の対象とそうでないものを見分ける力だけはついた気がする。本をたくさん読だり、好奇心旺盛であっても書く力には結びつかない。一つ一つを消化するのに精一杯なことが多い。断片として頭に残っても、それを繋ぎ合わせることが出来ない。逆引き辞書が欲しいと思う。時々、スタミナ切れを感じる。
「継続は力なり」と言うし、のんびり続けていこうと思う。

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