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2006年4月26日 (水)

ポッンと三つ

暖房を入れれば暑いし、切れば寒い。いずれにしても寝苦しい夜だ。しばらくベッドの中でぐずぐずしていたが、夜明けまでの途方もない時間のことを考えると、ますます寝苦しいだけだから枕元の時計を手にとって身を起こした。暗闇の中に蛍光色の文字盤が2時25分を指している。
暖房を切り、パジャマの上にセーターを着て、寝付くまでの間を読書で紛らわそうと本箱から『裏ワザ・隠しワザ』(素朴な疑問探求会編/河出書房新社)を取り出して読んでいるが、先ほどから寝返りばかり打っている。その度にシワになるシーツ、移動して半分ベッドからずり落ちそうな毛布と掛け布団が、私の神経を逆なでするようで余計に気分が悪くなってくる。
引き金になるような、さしたる理由もないわけだが、敢えて言えば、右頬にポッンとニキビのようなものが出来た。首にもポッン、そして胸の辺りにもポッン。合計3個のポッンは痒みを伴って、掻くたびに周りが赤くなってくる。普段なら虫刺され程度の気にもならないポッンだけど、心身のバランスがちょっとでも崩れると、さも重大そうに思えてしまうのだ。身体とはそういうものだろう。
これも月のせいではないだろうか。月は潮を動かし、その月のリズムが自然界に与える影響はあるのだから、人の気分にも影響するはずだ。今日4月26日は月例27.70の二十九夜、危険度の高い日だ。以前にも書いたけれど、「月齢チェック表」を作って日々の出来事をチェックしている。私の場合は下弦から新月までの間が要注意日。28日が新月だから、明日、明後日まではこんな調子かな。
4時40分。さあ、もう寝よう。
寝る前に、この記事を更新しようと思ったのだが、ココログがまたまた緊急メンテナンス。管理画面へアクセスできない。6時に終了とのことだから、このまま待ってみようか・・・。

『裏ワザ・隠しワザ』にあった、取って置きの妙案を二つばかり参考までに。

・折れた口紅を元通りに繋ぐ方法
「百円ライターにポッと火をつけ、口紅が折れた断面をそれぞれ温める。すると、ロウソクのように表面が柔らかくなるはずだ。で、二つをドッキング。常温で半日、そのままにしておけば、口紅は元に戻る。」
私、折れた口紅が2本もあるから早速試してみよう。

・花粉症を和らげるこんなに簡単な隠しワザ
「その方法は、ガムを噛むことである。」帝京大学医学部の先生の2週間の実験に基づくものだが「少なくとも5分以上、より長くガムを噛み続けた人ほど、症状が軽くなったという。」ただし、ミント系のガムだけだそうだ。

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2006年4月19日 (水)

その時がくれば

犬ブログにも書いたことがあるのですが、今宵もコレクションゲーム「バルビレッジ」に嵌りきっていました。私は実生活でも部屋の模様替えが好きな方で、しょっちゅう模様替えをしていますがゲームの世界でも同じです。「バルビレッジ」をやり始めて、それこそカワセミ村の端から端まで日に数百回もクリックして、アイテムを探しをしては模様替えをしているのですから、これほど始末の悪いことはありません。アイテムに限りがあるから、ここらで限界でしょうが。
「バルビレッジ」の後はブログの更新と、ちょっとした書き物とで夜更かしです。
右手の使いすぎでか、あるいはここのところの気温差で風邪を引いたのか、体の右半身が不調です。
まず、頭の右半分が重い。そして右喉が痛い、右の歯が痛い、右肩が痛い。右手にいたっては腕をあげるのが困難なくらいに痛みが走っています。右足も痺れを感じるかな・・・。このままでは、仕事にもさしつかえることが出てくるから自重しなくってはならないのですが・・・
それでも楽しいこと、好きなことは痛みをおしてでもやってしまうわけで、時間は瞬く間に過ぎてしまいます。こういうことは毎度のことで一段落して休息を取れば治ってしまうのですから今回もその調子でしょう。私の場合は、医者にかからなくっても時が治してくれるんですから不思議です。

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2006年4月17日 (月)

犬の場合

ブログなら気楽に更新できると思っていたものの、これまたなかなか更新できません。
平凡な暮らしの中にも思うことや失敗談など転がっているのですが、腰を落ち着けて書こうと思っているうちに、あっという間に時間が過ぎて行きます。時間とは、自分の意思や努力ではどうにもならないもので、ひとりでにさっさと過ぎ去ってしまい、元に戻らないのですから真に厄介です。
戻らない時間を嘆いても仕方ありません。更新ができないのは私の体が休息を要求しているのだと思い、これからもこの調子で行こうと思っています。

先日、富山県で起きた終末患者の延命治療をめぐっての問題に触れました。終末医療の基準が法制化されていないだけに難しい問題です。
これが飼い犬の場合だったらどうだろうか?
最近読んだ本『エアデールテリア物語』(副題「人にいちばん近い犬」/遠藤 貴壽 著/草思社)に、獣医師である著者の飼い犬ペニー(エアデールテリア)の尊厳死について書かれている箇所がありました。ペニーは自己免疫性の疾患で赤芽球癆という難病を患い、その上に右後肢の関節骨折というアクシデントにも見舞われ、もはや回復の見込みのない時期が来たとき、著者の判断でペニーの尊厳を守る死を選んだ話です。
元気なころのペニーは猪猟に優れた犬で、どんなに強い猪を相手にしてもペアで組めば容易に咬み止めることの出来、その猟欲と闘争心は比類がないほどの犬ということです。病状の悪化が死を待つしかない状態に陥いったときの著者の判断は、「人だけでなく犬にもその存在にふさわしい尊厳死というものがあるはずだ。そしてペニーの尊厳死は、戦いのなかにこそあるべきだ。」というものでした。
ペニーの最後は咬み殺し訓練でした。貧血で少しでも動くものなら意識が朦朧とするであろう時期に、100キロはゆうにある猪に立ち向かわせたのです。その日の朝、著者はペニーに次のように問いかけています。「ペニー、おまえ、このまま病院で死ぬんがええか?それとも今日猪と戦って死ぬんがええか?」
飼い主のその言葉が犬に通じたかどうかは疑問ですが、きっと思いは通じたことでしょう。
訓練所で大きな猪に咬みつき、振り払われても振り払われても尚も咬みつき、余力尽きて目を閉じたままでの状態で這うように寄り付いて、最後まで戦うことをやめずに立派に最後を全うしたということです。
犬に感情があったとしても、飼い主でもその気持ちを完全に理解することは出来ないでしょう。たとえ、専門家であっても然りです。著者もこれを「自分のエゴか」と問いかけていますが、心のある限りを傾けて愛情を注ぎ最後までその能力を引き延ばし育てのだから、その決断に私は納得します。犬に限らず、話すことの出来ない動物たちは自分の意思を言葉として伝えることが出来ません、訴えることが出来ません。それでもその表情やしぐさから彼らの意思をある程度汲みとることの出来るのは、愛を注いで飼育した飼い主だからこそです。要は愛情を注いだ対象に対して、飼い主の満足する方法で旅たつ瞬間を見守ることだ、と私思います。

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